2020年11月15日(日)
申命記18:15-22,使徒言行録3:22-26
誰でも自分に批判的な人は苦手なものだ。しかしその批判が的外れなものではなく、まっとうな指摘であるならば、その存在は、自分自身の成長のために必要な隣人だとも言える。その声に耳を傾けることができるかどうかに、人間としての成熟度が関わってくる。
「まっとうな批判者」。そのような役割を聖書の世界で担ったのが、預言者たちである。今日の聖書箇所は旧新約ともその預言者に関する内容である。
旧約はモーセがイスラエルの民に向けて語った言葉である。ここでモーセは「わたしのような預言者」と語る。確かにモーセは神の言葉を「預かって」人々に語っている。その意味で彼は最初の預言者と言えるかも知れない。
さらにモーセは「その預言者が本物かどうかは、その預言の言葉が実現したか(結果責任)が決め手だ。」とも語っている。ありていな評価だとは思うが、「はたしてそんなものなのか?」と首をかしげたくなる。そういうことだと、「当たり馬券を的中させた人が、正しい預言者だ」ということになりはしないだろうか。
ところで、モーセ自身の預言者としての働きはどのようなものであったか?みんなの願いを余すことなくかなえてくれる働きであったのだろうか?もちろん必要なものは応えたが(マナ、岩からの水)、度を超えたワガママな要求(肉が食べたい、エジプトに戻りたい)はこれを叱責した。モーセは「まっとうな批判者」でもあったのだ。
新約は使徒たちによる宣教の場面でのペトロの言葉である。ペトロはユダヤ人たちに語りかける。「神はアブラハム(ユダヤ人の祖)を選び祝福を約束し、モーセを通して救い(出エジプト)を与えられた。そして預言者を送り、悪から離れさせ祝福にあずかれるように導いて下さった。その預言者に聞き従わないものは滅びを免れない。」
ペトロは、人々を滅びに定めたくてそう言っているのではない。むしろ「救いにあずかってほしい。祝福を受けるにふさわしい人になってほしい…」そう願ってこのように語るのだ。ただしその救い・祝福を受けるためには必要なことがある。
それは預言者、すなわち「まっとうな批判者」の声に耳を傾けるということである。自らの欲望と自己中心的なワガママな心に支配されていたのでは、神の救い・祝福を受けることができないのである。預言者の「耳に痛い声」をしっかり受けとめる。そこに信仰者の成長がある。
私たちにとって最も確かで信頼できる預言者とは誰か?それは言うまでもなくイエス・キリストである。イエスはモーセが言うように「預言の結果責任を果たした」から、確かな預言者なのだろうか?そういうことも確かにあっただろうが、それが決め手ではないと私は思う。
そうではなく、イエスは最も小さな者・弱くされた者の側に立ち、彼らに寄り添って生きられた。そしてその立場から、弱い者を軽んじる世界を改めるために神の言葉を語られた。語るだけではない。そのために自分の命まで差し出していかれたのだ。
そんなイエスの言葉は、2000年の時を経た現代でも耳を傾けるべきまっとうな批判者としての「預言者の声」である。分断と対立を煽り、人間の強欲と傲慢さに開き直り、弱者を見下す残酷さをテコに自分への支持を集めようとする権力者と、それに媚びへつらう人間が幅をきかせる今の社会にとって、大切に聞かれるべき「預言者の声」である。それは時に耳の痛い言葉である。しかしそれは私たちを人間的・霊的な成熟へと導いてくれる「恵みの声」なのである。