『 ちいさないのちが 』

2021年1月3日(日)
エレミヤ31:15-17,マタイ2:13-23

大晦日の新聞に掲載された、「人間の想像力によって、新しい物語が生まれる」という動画配信会社のCMに目を奪われた。人類の英知はこのコロナ危機もいつの日か乗り切ることだろう。さて、その時生まれる「新しい物語」とはどんなものなのだろうか?どんな物語が始まるにせよ、そこで「ちいさないのち」が損なわれるような道だけは、決して進むことがないように祈りたい。

新年最初の聖書箇所は三人の博士の物語、その続編である。「新しい王」の誕生を見届けようと、東の国から来た彼らは、幼な子イエスに出会ったが「ヘロデのところに帰るな」というお告げを受けて、別の道を通って帰っていった。

博士たちに裏切られたことに腹を立てたヘロデは、周辺地域の2歳以下の男子を皆殺しにした。自分の座を脅かす人物の出現を、幼な子のうちに摘み取ってしまおうしたのである。

マタイはこの悲劇を、激しく泣く母たちの姿を語ったエレミヤの預言を引用して記している。救い主の誕生という喜びの出来事の傍らに、わが子を殺された母たちの悲しみがあったことを忘れてはならない。

考えてみれば、ユダヤ人の救いの原点である過越の出来事も同じようなものだ。解放されたイスラエルにとっては喜びの出来事でも、長子を失ったエジプト人の家庭にとってみれば、この上ない悲しみ・痛みの出来事である。自分に「よきもの」をもたらす事柄の傍らに、小さないのちが痛んでいる…そのことに平気でいられる人間になってはならないと思う。

ヨセフ・マリア・幼な子イエスは、天使のお告げを受けてエジプトに避難し、難を逃れた。そしてそこでヘロデが死ぬまで滞在し、ヘロデの死後、ガリラヤに戻ったと記される。ふと私は想像する。イエスは成長の過程で、このベツレヘムの幼児虐殺のことをまったく聞かされずに育ったのだろうか?と。

もし誰かがイエスにそのことを告げていたとしたら…?それはイエスの人格形成に大きな影響を与えたのではないかと思うのだ。やがて成長したイエスはその生涯において、いと小さき人々を大切に生きられた。自分の命をかけて小さき人々の救いのために生きられた。その生き方の原点のひとつに、自分の誕生にまつわるエピソードが深く関わっていたのではないか…そんな想像をするのである。

自分がこの世に生まれたそのことで、いくつもの小さないのちが奪われた、そのことを知り、深く悲しみ、悩まれた…そして、だからこそ小さないのちを押しつぶす力に対して激しく憤られ、小さないのちに寄り添って歩まれたのではないだろうか。

小さないのちが尊ばれることこそ神のみこころであり、神の国の到来である…それがイエスの宣教のメッセージである。私たちもその道を進みたい。