2021年1月17日(日)
マタイ4:18-25
イエスの宣教集団と、相撲部屋には意外な共通点がある。「いずれも弟子を取る」ということなのだが、弟子入りの形が似ているのだ。武道、芸能、学問、お茶やお花など、師匠と弟子との関係で技や知識が受け継がれる世界は他にもある。しかしほとんどの場合、弟子の方から願い出て弟子入りする。
しかし相撲の場合、とにかく身体の大きい子どもを見つけて、親方の方から声をかける。身体の大きささえあれば、独特の育成メソッドで、それなりの力士に育てることができるのだそうだ。
イエスの場合も、師であるイエスの方から声をかけて弟子を招かれる。今日の箇所は4人の漁師の弟子入りの場面だ。イエスが宣教を始められるにあたり、たったひとりで始めるのでなく、弟子を招かれた。イエスにも共に歩む仲間が必要だったということなのかも知れない。
声をかけられて、ペトロとアンデレの兄弟は「すぐに網を捨てて」イエスに従った…とある。私たちの周りで、そういうことはめったにない。駅前で聖書を渡され「集会に来ませんか?」と誘われても、多くの人は無視して素通りしていくだろう。ヤコブとヨハネのように「父親を置いて」従った…ということに至っては、現代の目から見たらかなりアブナイ行動に思える。
少し違う視点で考えてみよう。イエスが声をかけられたのは、この4人だけだったのだろうか?と。結果的に従った4人が揃うまで、イエスは他にもたくさんの人に声をかけ、ほとんどの人に無視されたのではないか、と。
多くの人々が素通りしていく中、呼びかけに応えて従った者・最初の4人は、みな漁師であった。ここには何か必然があるのかも知れない。羊飼いのように生き物を飼う仕事ではなく、農夫のように土地にへばりついていなければならないわけでもない。自然相手の仕事であり、比較的自由度が高く、冒険心に富んでいた…そんな側面がイエスに従って行けたひとつの要因なのかも知れない。
それにしても、声をかけられてすぐに従うというのは、かなりの思い切りのよさを感じる。彼らを突き動かしたものとはいったい何だったのだろうか。
イエスはこの後、多くの病人を癒されたことが記されている。病気の癒しはイエスの宣教の大きな柱であった。古代社会で病人は「罪の報いを受けた者」とか「悪霊憑き」と受けとめられ、蔑まれていた。しかしイエスは病人を差別せず、大切な人格を持つひとりの人間として受け入れ、癒された。そんな姿に、弟子たちは惹かれるものを感じていたのではないか。
イエスは、彼ら漁師たちが弟子としてふさわしいから声をかけられたのだろうか?そうではない。このあと弟子たちはイエスの教えに対する無理解ぶりを次々にさらけ出してしまう。そして十字架の時もイエスを見捨てて逃げ去った。そんな、特に優れた立派な人間だったわけではない彼らの中に、けれどもイエスは人間の尊厳を見つめられた。病人たちの中に人間の尊厳を見ておられた、その同じまなざして。そして彼ら4人の漁師を弟子として招かれたのである。
イエスの弟子となるのに、資格は何も必要ない。招きに応えるという決断こそが唯一の条件なのである。ペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブにはそれができた。私たちにそれができるだろうか?