『 暗い時代に差し込む光 』

2021年1月24日(日)
イザヤ8:23-9:3, マタイ4:12-17

アメリカ新大統領就任演説の中で、「恐怖ではなく希望の、分断ではなく団結の、暗闇ではなく光の物語を一緒の書いていきましょう。」というフレーズが印象に残った。新型コロナウイルス感染が広がって1年。なかなか明るい兆しが見えてこない。そんな中、それでも暗闇の中に光を見出したい。

聖書は旧約も新約も「暗闇に光」に関する箇所である。イザヤ書はアッシリア占領の時代、国土の半分を支配されたイスラエル。その暗闇の中に光が与えられることを語る箇所である。この箇所は私たちにもなじみが深い。クリスマスの時期によく読まれる箇所、旧約のメシヤ預言のひとつとされている箇所だからである。「ひとりのみどりごが与えられた/その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」(イサヤ9:5)

このイザヤの預言が700年の時を経て現実のものとなったということを表すのがマタイである。イエス・キリストの宣教のはじめにマタイはイザヤの言葉を引用する。イエスの宣教がゼブルンとナフタリ地方のカファルナウムから始まったことをイザヤの預言と関連させる。「このことが起こったのは、主が預言者を通して〇〇と言われていたことが実現するためであった」とは、マタイの常套句である。

ここで注目したいのは「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」という言葉である。同じ個所をマルコは「ヨハネが捕らえられた後、イエスは福音を語り始めた」と記す。どんな権力者にも臆せず神の裁きを語ったバプテスマのヨハネ。そのヨハネが捕らえられるような状況の中、イエスの宣教は始められた…そう読むことができる。

しかしマタイでは「ガリラヤに退かれた」、つまり一時退却された…そう受けとめることもできる。マルコのイエスの方が「カッコいい」。しかしそれは下手をすれば玉砕覚悟の無茶な選択とも言える。山登りで大切なのは前進する決断よりも退却する勇気だという。ヨハネ逮捕の知らせを受け、「ここは無理せず一旦退こう」そういう判断も「アリ」なのかも知れない。私たちも大きな試練や苦難が待ち受けている道に進まねばならない時、思わず怯むことがある。そんな時、ひとまず引いて気持ちと体制を整えることがあってもいいと思う。

ただしそこで、「一旦引く」にしても「勇気を出して前に進む」にしても、大切にしたいことがある。それは「絶望の闇の中に差し込む光がある」そのことを忘れないようにすることである。絶望に魂を売り渡してしまわないことである。

昨日1月23日は新島襄の命日である。大学設立に駆け回る中、前橋滞在中に病魔に倒れた新島は、気候の良い神奈川・大磯で静養するが、回復せず召されてしまう。その大磯滞在中、庭に咲く寒梅の花を見て「真理は寒梅に似たり。敢えて風雪の中、百花の魁として咲く。」と詠った。病気により死期が迫る絶望の中、それでも梅の花に、新島は光を見たのだろう。そしてその光を後継者たちに託したのだろう。

先に述べた新大統領就任式で、若き女性詩人、アマンダ・ゴーマンは詠った。「光はいつもそこにある。私たちに光を見る勇気があれば」。そんな「光を見る勇気」を持とう。