『 規則で人は救われない 』

2021年1月31日(日)
マタイによる福音書5:17-20

人が規則を守るのは、違反した時の罰則を恐れるからだろうか?そういう心理もないわけではないが、本質はもっと他にある。人が規則に従うのは、その定めが目指すものを人々が理解し、納得し、共感しているからである。逆にその理解・納得・共感がないところでは、どんな重罰を科しても人は網目をくぐるように規則を破るだろう。

イエスの時代の「律法主義」とは、まさに律法の目的の本質を見失い、理解・納得・共感なしにただ規則を「守らせる」という態度であった。そのため、本来人間を救うはずの宗教が、むしろ人々を押さえつけるものとなってしまっていた。

この息苦しい世界に風穴を開けたのがイエスだ。「安息日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではない」と言われたイエスは、隣人の救いのためならば、律法の規定をあえて破られた。そして律法の精神を「神を愛し、隣人を愛する」ということに要約し、律法主義からの自由を示された。

律法学者たちによって牛耳られていた民衆は、イエスの教えに爽快感を感じたことだろう。しかしメンツを潰された律法学者・ファリサイ派の人たちはイエスを目障りに思い、次第に憎しみを抱くようになった。その帰結が十字架の死である。

彼らがイエスを処刑した罪状は「神を冒涜する者」であった。神と人との契約である律法から自由に生きたイエスは、神を冒涜する不届き者だったのだろうか?「そうではないよ!」と語るのが今日の聖書の箇所である。

「わたしが来たのは律法を廃するためではなく、完成するためである」「あなたがたの義が、律法学者・ファリサイ派の義にまさっていなければならない」…マタイの描くイエスはそのように教える。マタイは福音書記者の中で、最もユダヤ教的伝統を重んじた人である。「律法から自由に振る舞うイエスの姿」だけを記すことに、ためらいがあったのかも知れない。

あるいはこんな事情があったのではないか。イエスから「律法からの自由」を学んだ初代のクリスチャンたち。しかし堅苦しさから解放された反動から「律法なんて無意味だ!自分の好きなように生きていいのさ!」と勝手気ままに、野放図に生きる人々が現れてしまった…そんな状況に向かって、「それは違うよ!律法そのものは信仰生活において大切なものなのだよ!」と伝えたかったのではないだろうか。パウロも「あなたがたの自由を、罪をおかす機会とせずに、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と教えている。

法や規則と、人間の自由との関係…それは昔も今も大きなテーマである。社会の一員として暮らす限り、法や規則に従うことは大切だ。それだけでなく方や規則はあなたを守ってくれるだろう。しかし心しておきたい。「法や規則では、人は本当には救われない」ということを。人を本当に救うのは、「愛」なのだということを。法や規則に対してどう振る舞うか、判断に困ったらイエスを想い起そう。そうすれば自ずと道は示される。