2021年3月21日(日)
マタイによる福音書17:1-13
登山においてクライマックスは、何といっても登頂の瞬間だ。苦労して登ってきて山頂を極めた時の達成感・充実感はたまらないものがある。まさに「栄光の瞬間」だ。しかしよく言われることは、「登頂よりも大事なのは、無事に山から下りてくること」である。登頂達成の栄光を目前で諦められずに、犠牲になった人は数知れない。
イエスの「山上の変容」の場面である。古くから山は神の顕現する特別な場所と受けとめられていた。モーセが十戒を授かったのも(シナイ山)、エリヤが神の守護を受けたのも(ホレブ山)、山の上であった。マタイ5-7章に記されるイエスの一連の教えは「山上の説教(垂訓)」と呼ばれる。日本でも多くの山は修験者の修行の場だ。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れてイエスが山に登られると、その姿が白く光り輝き、そしてそこにモーセとエリヤが現れてイエスと語り合ったという。モーセは律法の、エリヤは預言者の代表選手、いわば旧約聖書全体を象徴するスーパーヒーローである。
その二人が現れてイエスと共に「三者会談」をしている…「おぉ、まさに今この時こそ、イエスさまがメシヤとしての働き、神の栄光を現わす働きを始められる時に違いない!」3人の弟子たちはそう感じ、興奮を覚えた。ペトロは思わず提案する。「私たちがここにいることは素晴しいことです!三つの小屋を建てましょう。モーセのため、エリヤのため、そしてイエスさま、あなたのために…」。メモリアルホールを作ろうということか。
全世界あらゆるところに、記念の建物や銅像や碑が建てられている。それに関わった人の働きや足跡を語り伝えるためにそれらを建て、その栄光を止め置こうとする。そうしてあわよくば自分自身もその栄光のお裾分けにあずかろうとする。「いい・悪い」ではなく、私たち人間はそういうことをしてしまうのだ。
栄光の絶頂に酔いしれる弟子たちに、天からの声が聞こえた。「これは私の愛する子。これに聞け!」弟子たちが恐れてひれ伏していると、イエスが近づいてきて「起きなさい。恐れることはない」と言われた。見ると、モーセもエリヤも姿はなく、ただイエスひとりがおられた…。
イエスは「今見たことを誰にも言ってはならない」と言われた。どうして?栄光の絶頂の経験なのに…いわゆる「メシアの秘密」というテーマで、聖書学では永遠の謎とされる。ただ確かなことは、弟子たちがイエスに対して抱いていた期待と、イエスご自身が目指される歩みとの間には、大きなギャップがあったということだ。
弟子たちは、栄光の山で光り輝くメシア、栄光の、勝利のメシアを求めた。しかしイエスはその栄光の山を下りられる。そして人々の暮らす日常の中に出かけて行って、そこで人々と出会い、そして十字架への道を歩まれるのだ。
人間は誰もが栄光を求めてしまう。しかしそのような心は結局「自分を誇る」ものだ。そのような心のままでは神のみこころに従うこと、そして真摯に人と出会うことは難しい。世の栄えを打ち捨てて、十字架を背負う覚悟を持たないと、なかなかそれはできない。イエスはそのことを身をもって示すために、栄光の山から下りられるのだ。