『 客間の外で 』

2014年12月21日(日) クリスマス礼拝
ルカによる福音書2:1‐7

師走の夜を彩るクリスマスの賑わいは、寒く厳しい冬の季節を楽しいものに変えてくれる、魔法のような力を持っている。人間にはこのような祭りが必要だ。しかし、そのような街中が楽しい気分に包まれる季節は、ある意味で最も淋しい思いをする人々を生み出しやすい季節でもあることを忘れないようにしたい。

神戸で過ごした最初のクリスマス(1997年)での、忘れられない想い出がある。12月半ばの日曜日 教会の若者たちと神戸の繁華街に出かけ、大きなクリスマスツリーの電飾を見上げて「うわぁー!」と歓声をあげた。正直、心がウキウキした夜だった。

次の日、僕は「被災障害者・高齢者支援の会」というボランティア団体の活動に参加した。阪神大震災から約3年、いまだ自立できずに仮設住宅で暮らしていた障害者・高齢者を支えるのが主な働きだ。50世帯ほど入れるプレハブの住宅に当時残っていたのは4~5世帯。淋しい雰囲気が漂っていた。一人のお年寄りの女性の部屋を訪ねた 部屋に入るなり、「あんたらきてくれて、人と口きくの5日ぶりやわ…」と彼女は言った。5日間、誰とも話さない日々。クリスマスツリーの飾りつけなんかどこにもない、裸電球一個の淋しい薄暗い部屋。

その時ふと思った。「もし今イエス・キリストが来られるとしたら、どこにおられるのだろう?」あのショッピングモールの豪華なツリーの下?いいや、そうじゃない。もしキリストが来られるなら、この仮設のおばあさんの部屋ではないだろうか?そうであってほしい、そうであるに違いない、そうであらなければならない…そんなことを思った。

聖書の伝えるクリスマス物語によると、イエスの母マリアが幼子を生んだ場所は、馬小屋だったという。「マリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋(客間)には彼らの泊まる場所がなかったからである」と記されている。宿屋の客間。きれいに整えられ、お客さんを迎えるのに相応しいゴージャスな空間。しかしキリストが生まれたのはその客間の中ではなく、客間の外なのだ、ということ。楽しい、明るい雰囲気の場所ではなく、暗く淋しいところだったのだ、ということ。この世の悲しみ、苦しみ、痛み ― そういうものの中に差し込む希望の光。それが、クリスマスの喜びの本当の意味だというのである。

クリスマスは街がきらびやかになり、人々の心がはずむ、まさに「ハッピー」な時である。しかしそのハッピーな出来事が一番最初に訪れたのは、客間の中ではなく、客間の外だった。そのことを忘れないようにしたい。

「救い主は客間の外で生まれた」。このことは私たちにとって大きな驚きである。しかし同時に、大きな慰めであり、希望でもある。なぜなら私たち自身もまた、「客間の外」としか思えないような状況にしばしば立たされることがあるからだ。誰からも見放されたかのように思える客間の外。
そこにも慰めがある、そこにこそ救いがある。そのことが知らされた日、それがクリスマス。

今年のクリスマス、私たちの心がさらに新しい世界へと開かれていくきっかけとなりますように。そして、客間の外でお生まれになった救い主との出会いが、与えられますように。

メリークリスマス!