2021年5月2日(日)
ヨハネによる福音書14:1-7
私たちの信仰は、目に見えない神を信じること、確かめようのない神のみこころを尋ね求めることだ。イエスの復活に際して、「私はその手の釘の穴に指を入れるまで信じない!」と言ったトマスに、イエスは「見ないで信じる者は幸いである」と言われた。見えないから、確かめられないから、だから「信じる」のである。見えるなら、確かめられるなら、もはや信じる必要はない。「確認する」だけで十分だ。
よく引き合いに出す二人の宇宙飛行士のお話。旧ソ連のガガーリンは宇宙空間を旅して「やっぱりそこには神はいなかった」と語った。無神論・宗教を否定する国家の代表だからそう言ったのだろうか…。ところがその数年後同じ宇宙を旅したアメリカ人ジム・アーウィンは「確かに神の姿は見えなかった。けれども私は今まで生きてきたどの瞬間よりも、強くはっきりと神の存在を『感じた』」と語った…。
両者のエピソードは、神を信じることへの示唆を与えてくれる。ガガーリンは見えるものしか信じようとしなかった。しかしアーウィンは見えないものを信じる心を求めていったのである。
けれども、そのような「見えないものを信じる心」というものが、誰の心にも自然発生的に生まれてくるものではない。多くの人は誰かの手引き・影響を受ける中で、その「信じるマインド」というものを示され、養われてきた。いわゆるメンター(優れた指導者・助言者)の存在である。教会に集う者にとって、それは言うまでもなくイエス・キリストである。
今日の箇所は生前のイエスとトマスとの対話である。「私は間もなくあなたがたの元を去り『父の家』に行く。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」と言われたイエスに対し、「どうやってそこに至る道を知ることができるでしょうか?」とトマスは尋ねる。「実証主義者」の面目躍如である。イエスは答えられた。「私は道であり、真理であり、命である」「私を見た者は、父(神)を見たのである」と。
私たちは直接神を見ること・声を聞くことはできない。しかし聖書に記されたイエスの生涯とその教えを通してそれを知ることができる。イエスこそ、我々にとっての「神を知る道」なのである。
もう一つ大切なことがある。イエスにおいて示された「神を知る道」、それを「知る・理解する」というところに止まらずに、実際にその道を歩もうとすることである。傍観者のようにただそれを読み、眺めているだけでは本当のところは分からない。その物語の中に身を置くことで、心に深く刻まれる経験が与えられるのだ。
私たちは完璧ではない。示された道を歩もうと思っても、間違えたり、失敗したり、迷ったりすることがあるだろう。だから週に一度、礼拝をささげ、神に祈り、軌道修正をしていただくのである。礼拝から日常へ、そして日常から礼拝へ…その耐えざる往復運動、それが私たちの信仰生活なのである。