2021年5月9日(日)
マタイによる福音書6:5-13
私たちの信仰は、目に見えない神の確認しようのないみこころを尋ね求めることである。私たちにその「神を知る道」を示してくれるのがイエス・キリストである…そんなメッセージを先週分かち合った。もう一つ、よりスピリチュアルな形でそのことを求める行為がある。それは祈りである。
私たちのささげる祈りは、さまざまな内容がある。願い事、感謝、決意表明といったポジティブな祈りばかりではなく、恨み言・泣き言・神への抗議といった内容の祈りもある。よく「お祈りをしたいけど、どうやっていいか分からない」という声を聞くことがある。一人で祈る時にはどう祈っても自由。しかし公同(人前で)の祈りにはそれなりの作法のようなものがある。そこで今日はこの祈りの作法についてレクチャーをしてみたい。
公同の祈りは次のいくつかの内容によって構成されるのが常である。①呼びかけ。「父なる神」「主なる神」いろんな呼びかけがなされる。「父」と祈られるのは「三位一体」の教義の影響である。端的に「神さま」だけでもよい。②感謝。よっぽど切羽詰まった状況でなければ、まずは感謝から入ろう。そうすることで感謝を信仰の土台にできる。そのような姿勢は大切なものだ。
③懺悔・悔い改め。これはいつもでなくても構わない。もしあれば誠実に祈りたい。④願い事。私たちの祈りの大半は、きれい事抜きに言えば願い事である。よく「ご利益宗教」と批判的に言うことがあるが、ご利益を願うこと自体が悪いのではない。「ご利益を与えてくれる神なら信じる、そうでないなら信じない」という態度がいけないのだ。それは「自分の腹を神とする」行為であり、偶像崇拝だ。ご利益を祈って、あとは神に委ねることが肝要だ。
礼拝においては間に献金感謝の祈りが入ることがあり、そして⑤しめくくりの言葉。イエス・キリストの名によって祈る。ヨハネ14:14の言葉に由来する。この言葉を聞くと「あ、終わったな」と受けとめ、「アーメン」と唱和できる。これらが私たちの「祈りのかたち」である。
しかし形にとらわれるのは主客逆転の態度とも言えよう。神は私たちの祈りのかたちを見られるのではない。祈りのこころを見ておられるのだ。「偽善者のように人に見てもらおうと祈るな」「異邦人のように言葉多くくどくど祈るな」…今日の聖書の箇所である。イエスは大切な祈りのこころを教えられる。
「神は祈る前からあなた方に必要なものをご存知だ」とも言われた。「それなら祈る必要はないじゃないか!」と思う人もあろうが、それは違う。神は私たちに本当に必要なものをご存知である、その神のみこころを求めるために祈るのだ。どうしても祈れない日があるかも知れない。その日のために、イエスは「主の祈り」を教えて下さった。
では、私たちの祈りは本当に聞かれるのだろうか?それについてはこう受けとめよう。「神は必ず私たちの祈りに応えて、必要なものを備えて下さる。ただし、それは『いま私が願っているもの』とは違うものかも知れない」と。そう信じて神に委ねること、それが私たちの「祈りのこころ」である。