『 こころひとつに祈るとき 』

2021年5月23日(日) ペンテコステ礼拝
使徒言行録2:1-4

ルカ・使徒言行録伝承では、初代教会の宣教はエルサレムから始まったとされる。イエスを十字架にかけた人々のいる街、弟子たちにとっては敵地(アウェー)である。復活と昇天の喜びを体験したとはいえ、どれほど不安で心細かったことだろう。

彼らは「上の部屋」に集まっていた。その数120人。結構目立つ集団である。安心・安全を考えるなら、多くの人が一緒に集まらない方がいい。それ以前に、アウェーには長くとどまらない方がいい。

けれども彼らはエルサレムを離れなかった。あの十字架の時にように、バラバラに逃げ去ることもしなかった。イエスが「父が約束されたものを送って下さる」と言われた言葉を信じて、集まっていたのである。

集まって何をしていたのか?若き日の渋沢栄一のように、政府転覆の相談でもしていたのか?そうではない。「彼らは・・・心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)、祈るしかなかったのである。

その弟子たちのもとに、激しい風と赤い炎、すなわち聖霊の導きが与えられた。勇気を得た弟子たちは、立ち上がってイエス・キリストの出来事を人々に語り始めていった。とつぜん外国の言葉で話し出した、とあるのは、この日を境にイエス・キリストの福音が世界の国々の人に伝えられていったことを表すのであろう。教会の誕生日、ペンテコステの出来事である。

弟子たちに聖霊が注がれたのは、彼らにその資格が備わっていたからだろうか?十字架の時とはちがって、復活のイエスに出会い、様々な教えを受けたことで、自信を持ったからだろうか?

「聖霊に満たされた人」と聞くと、自信たっぷり、揺るぎのない確信を抱く人の姿を想像する。しかしそれは聖霊を注がれたその結果としての姿であって、「自信たっぷりの人でないと聖霊が注がれない」ということではない。むしろ自信たっぷりの人には、聖霊は注がれにくい、注がれたとしてもそれに気付きにくいのではないかと思う。なぜなら、自信たっぷりの人は祈ることをしなくなるからである。

もちろん、そういう人でも形の上では「祈るという行動」を取ることはある。しかし「祈りのこころ」を忘れてしまうのである。あのイエスのたとえ話に出てくるファリサイ派の人=「神さま、私がこの徴税人のような人間でないことを感謝します」と傲慢な祈りをささげた人のように。

復活・昇天の出来事を体験してもなお、弟子たちは不安の中にいた。自信なんてひとかけらもなかった。けれども彼らは、今度は逃げ去りはしなかった。すき間だらけの心を抱えた120人もの人々が「上の部屋」に集まって、心ひとつに祈っていた。そのすき間めがけて、神さまの息吹・ふしぎな風が注ぎこんだのである。

自信がなくてもいい。むしろ自信たっぷりでない方がいい。「自分にはすき間がある」そのことに気付いていさえすればそれでいい。そんなすき間だらけの心を持つ人々が、それでもこころひとつに祈るとき、そこに聖霊の導きが与えられる。