2021年5月30日(日)三位一体主日
マタイによる福音書11:25-27
ペンテコステ(聖霊降臨日)の翌週の主日は「三位一体主日」と定められている。「三位一体」、それはキリスト教独特の教義で、唯一なる神が人と(世界と)関わられる三つの方法を表す。
①父なる神、それは天地万物の創り主。すべてのいのちを造られた神の働きである。②子なる神=イエス・キリスト。十字架で人間の罪を贖われた「贖い主」である。③聖霊なる神、昔も今も我々に働きかける神の導き。「創り主」「贖い主」に対して「助け主」と称される。
今日はこの中から、イエスの祈りの言葉を元に「父なる神」について考えたい。イエスは神に祈るとき「父なる神」と呼びかけられた。「神の子であるイエスが、父である神に祈る」…ごく自然な呼びかけとも受けとめられる。このイエスの呼びかけにならって、多くの人は「父なる神」と祈り始める。
しかし中にはどうしてもこの呼びかけができないという人もいる。実体験での父親との関係が必ずしも良好でない人。家父長制的な価値観の下で、横暴に振る舞う父親によって自己を大きく傷つけられてきた人にとっては、「父なる神」という呼称を口にすることに対し、抵抗を感じられるのだろう。私にはその気持ちが何となく理解できる。私自身と実の父との関係にも様々な確執があったからだ。
イエスが「父なる神…」と呼びかけられた時、そこにはどんなイメージがあったのだろうか?イエスと、父・ヨセフとの関係はどうだったのだろうか?聖書にほとんど記述がないことから、ヨセフは早くに亡くなっていたと思われる。
しかしイエスは、少年時代に父の大工の仕事を手伝って、ガリラヤの庶民の家を訪ねて歩いていたのだろう。そのことが人間を大切にするイエスの生き様とつながったのではないか。そしてイエスは、もはや会うことのできない父の存在を、大切に思い尊敬しておられたのではないだろうか。
イエスにとっての「父なる神」、それは家父長制的オヤジのような横暴な存在ではなく、「(真理を)知恵ある者・賢い者にではなく、幼な子のような者に現わされる方」(マタイ11:25)である。だからイエスもいと小さき者を大切にする生き方を貫かれたのである。
イエスの神への呼びかけで、もう一つ学ぶことがある。それは「アッバ」という言葉である。これは「父上」といったもったいぶった言葉ではなく、幼な子が父を慕う「父ちゃん」という語感の言葉である。イエスはそのような「神との近さ」を生きられた。迷える子羊をそれでも見放さないで、赦しの御手で抱きかかえて下さる…そんな神への全幅の信頼を込めて「アッバ(父ちゃん)」と呼びかけられたのである。
実際の父と子の関わりは、人それぞれである。そしてそのありようは、その人自身の人生に何らかの形で反映する。祈りの際に「父なる神」と呼びかけられなくてもいい。イエスの祈りから、神への近さ・親しさ、そして全幅の信頼を置いて祈る姿を学びたい。