『 平和の使信を語る者 』川上牧師

2021年8月1日(日) 平和主日礼拝
ヨナ3:1-5, 使徒言行録9:26-31

今日は平和主日。平和の理念を語り、平和の理想を目指すこと、それは尊い行為である。しかし現実の世界で平和を求めることは麗しいことばかりではない。平和の使信を語る者は、時には世の多数の人の思いを逆なでするようなことを語らねばならないこともあるからだ。

旧約聖書の預言者たちの働きはまさにそのようなものであった。預言者の言葉の多くは力強く、威厳に満ちた印象を受ける。しかしすべての預言者が強い意志を持った人ばかりではなかった。中には「私にはその役割は重すぎます…」と逃げ出す人もいた。ヨナはそんなひとりである。

繁栄を極めたアッシリアの首都・ニネベに行って、「人々の罪ゆえにこの街は滅びる」と預言せよ…ヨナはそんな召命を受ける。しかし恐れをなして逃げ出し、船で嵐に遭い海に放り出されて魚に飲み込まれてしまう。そして魚のお腹の中で悔い改めて、ニネベに行く決意をする。

決死の覚悟で預言をするヨナ。するとそのヨナの言葉を聞いた人々はそれを軽くあしらうどころか、悔い改めてしまった。それを見て神はニネベの街を滅ぼす計画を変更された。納まりがつかないのがヨナである。「私の立場はどうなる!」と、滅びを下さない神に不満を抱くようになる。

社会の問題を指摘し「このままでは大きな危機を迎えることになる」と警告する人は、自説の正しさが証明されることを願うあまりに、その危機の到来を心待ちにするようになる。「ほら見たことか!」と言いたい心理、『狼少年のパラドクス』である。それは結局自分が神の立場に立つことに他ならない。そのことに気を付けよう…というのがヨナ書のメッセージである。平和の使信を語る者は、自分がつい神の立場に立ってしまう恐れがあることを自覚しなければならない。

新約はパウロの宣教活動の始まりについての記録。ついこの間までキリスト教を弾圧する立場であったパウロが、回心してキリストを伝える者になるわけだが、使徒たち(十二弟子)は最初、そのことを信じないで恐れた。するとそこにバルナバという人物が現れ、パウロの後見人となり初代教会への仲間入りをサポートした。

バルナバとパウロがどこで行き会ったのかは不明である。しかし確かなことは、パウロの語るイエス・キリストへの思い、その言葉がバルナバに「届いた」ということである。

平和の使信を語る時に大切なことは、人の心に届くように語ることではないだろうか。どんなに理路整然とした正しさを備えた言葉でも、独りよがりでは意味がない。現実の厳しさの中で平和や正義を語る人は、思いの強さに引きずられて、つい独りよがりになりがちである。思いの強さを薄める必要はないが、一方で人の心に届くように語ることが大切だと思う。どうすればそのような語り方ができるのか。強い信念と共に、ユーモアを忘れないこと、そして何よりも心に愛を抱くということではないだろうか。