2014年12月28日(日)
マタイによる福音書2:1-12
「記念スイカに現場大混乱」のニュースに考えさせられた。日本人は秩序よく並ぶことを美徳とする民族だと言われる。震災の炊き出しなどでも暴動もおこらずに列に並ぶ姿に世界が驚嘆した。しかし「手に入るはず」と思っていたカードが入手できないと知るや否や、不平・不満が噴出した。思い込みが破られた時、人は態度を豹変させるということだ。
イエス・キリストの生涯の最後、エルサレムに向かうイエスを、街の人々は「ホサナ!(救いたまえ!)」と叫んで迎えた。しかしイエスの振る舞いが期待外れだと知るや、数日後には「十字架につけよ!」と罵倒した。この群集の姿を私たちは批判できるだろうか?わたしたちも同じ振る舞いをしてしまうことが多いのではないか。
しかしこの「思い込みを破られる」という体験、そこから導き出される信仰の道のりもあるのではないだろうか。神の救いは、時に私たちの想定を超えたところからやってくる。クリスマス物語にはそのような出来事がいくつも見出される(年老いたザカリヤ・エリサベト夫婦によるヨハネの懐妊、年端もいかない少女マリアへの受胎告知、客間の外に生まれた救い主)。今日の箇所もそのひとつだと思う。
東の国から星に導かれてやってきた博士(占星術の学者)たち。彼らは天を見上げて生きる人々。すなわち地上の様々なしがらみから自由に発想し行動することができたはずの人たちである。しかしそんな彼らにも思い込みはあった。「ユダヤ人の新しい王が生まれる ― それはヘロデの王宮での出来事に違いない。」そんな思い込みを抱いて彼らはヘロデのもとを訪れた。
これは痛恨の出来事だった。なぜなら彼らの来訪によって王は不安を抱き、それが後の幼児虐殺へとつながってしまうのだから。
閑話休題。そのような思い込みを抱いてヘロデを訪ねた博士たち。しかしその思い込みは見事に破られる。救い主の誕生を迎えた街、それはユダヤの都・エルサレムではなく、小さな寒村・ベツレヘムであった。
幼な子イエスに出会った彼らは、黄金・乳香・没薬の宝物をささげた、と記されている。救い主にささげるために東の国から用意してきたのだろうか。「思い込みを破られて」というテーマから、少し違う想像をしてみたい。
思ってもみない形で救い主と出会った彼らは、そのことによって価値観が変えられた。金銭的価値のあるものを宝物として大切に思っていた気持ちが作り変えられ、それらのものを思わず手放した。彼らはヘロデのところに戻らず、「別の道を通って帰って行った」。ここにイエスと出会って生き方を変えられた人間の姿が象徴されている。そんな風に受けとめてみたい。
イエス・キリストの教えや生き様は、時に私たちの思い込みを破る形で現れることがある。そんな時に私たちはどう振る舞うか。イエスを「十字架につけよ!」と叫んだ群集のようになるのか。それとも別の道を通って生き方を変えられていった、あの博士たちのように歩むのか。