『忍耐して待ち望む』 川上牧師

2021年8月22日(日)
ハバクク3:17-19、ローマ8:18-25

「神さまはいつも私たちを守り、助けて下さる」という素朴な信仰は素晴しいものだ。しかし理不尽な苦難の経験に置かれる時、かえって悩みが深まることがある。「ではなぜその神が、なぜ私をこんな苦しみに遭わせられるのか?なぜ助けてくれないのか?」そんな問いが心を揺さぶるからである。

実は私は、あまりそういう悩みを抱かない。それは私が素朴な信仰者ではなく、「神さまは守ってくれないこともある」と考えるひねくれた信仰の持ち主だからかも知れない。

しかし「なぜ(Why?)この苦しみを…」とは問わないが、「この苦しみの中をどのように(How?)ということは常に問われているように思う。そのように「問いをずらす」ことによって、試練や苦しみに向き合うこと、それが私にとっての信仰の促しである。

現実の苦しみにいかに向き合うか…それは聖書の民・イスラエルにとって常に向き合ってきた課題である。特にバビロン捕囚の経験は信仰の試練・訓練の時であった。多くの預言者が現れ、「我々はなぜこの苦しみを味わうのか」について語った。すなわちそれは、イスラエルの、主なる神・ヤハウェへの不信仰への報いである、と。

そのような預言は、人々に信仰的な反省を迫るという点で意味あるものだ。しかしハバククはそのようには語らない。「なぜこの苦しみを(Why?)」と根本原因を問うことをせず、「いつまで苦しむのか(How long?)」と問いをずらすのである。

根本原因を追究する問いばかりでは人の心は辛くなる。ハバククは「なぜ?ばかりを問うな。いつまで?と問え」と教えてくれる。「原因」から「時間」に問いをずらすことで、人々の心を「今の苦しみ」から「将来への希望」へと向けさせるのである。

新約は将来の栄光を先取りした、パウロの確信に満ちた言葉である。「イエス・キリストによって滅びへの隷属から解放され、神の子の栄光・自由にあずかれること」それが「将来の栄光」だ。

ところでここに他ではあまり使われない「被造物(クティシス)」という言葉が使われていることに注目したい。パウロはどういう意図でこの言葉を使ったのか?恐らく「神の創造された天地万物・動植物すべて」という意味ではなく、「人間」を表すものとしてであろう。しかしそのパウロの意図を離れて、この言葉は現代に生きる私たちに大切なテーマを思い起こさせる。それはエコロジー、地球環境問題である。

人間の飽くなき欲望・開発によって、今や地球規模の気候変動が生じ、そしてそれが当の人間の暮らしをも脅かしている現実がある。そんな中で「すべての被造物」が呻いて、神の子の出現を待ち望んでいる…それが私たちの現実ではないか。コロナウイルスはその「飽くなき開発、止まらぬ破壊」を一旦立ち止まらせた。コロナは「禍(わざわい)ばかりをもたらしたのではなかった。

そしてパウロもハバククと同じ論法を使う。それは「現在の苦しみ」という自分の時間軸の狭い世界にハマり切ってしまうのでなく、「神の時間」という大きな時間軸を思い、すべてを委ねるということである。見えるものにとらわれるのではなく、見えないものこそ大切に信じ求めるという生き方である。

見えないものによって支えられる…そんな信仰に導かれ、まだ先行きの見通せないコロナ状況の中を、忍耐して待ち望む者でありたい。