2021年9月12日(日)
創世記45:4-8、エフェソ5:1-5(9月12日)
長く続くコロナウイルス状況の中で、なんだかみんなイライラしてきているように思う。イライラの根元にあるのは、相手に対する不寛容、「ゆるせない!」という感情である。
今日は恵老祝福礼拝、そんな礼拝でこんなことを言うのもなんだが、歳を取って怒りやすくなる人がいると言われる。新しいことに対応できなストレス、耳が遠くなることによるコミュニケーション不足、前頭葉の衰えによって怒りを抑える理性(ブレーキ)が効きにくくなっている…などいろんな原因が挙げられる。
しかしみんなが怒りっぽくなるわけではない。歳を取ることで経験が広がり、かえって丸くなる人もいる。時々自分を振り返って、自分はどうなのだろうかということを考えたい。そしてできればトゲトゲした人生をよりも、丸みを帯びた人生を目指したいものである。
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神があなたがたを赦して下さったように赦し合いなさい」(エフェソ4:32) これが人生において大切なことだ、と言われて反対する人はいない。しかしそれができないのである。大切だと分かっているのに、出来ない…それが私たち人間の残念な現実ではないだろうか。
今日の箇所でパウロは、①神に倣うこと、②愛によって歩むこと、③みだらなこと・汚いことを言わない、④感謝を表すこと、を教え命じている。はたしてパウロは「完璧な人間になれ!」と言っているのだろうか?もしそうなら、それはとても窮屈だ。
大切なのは完璧な人間になることではないと思う。そうではなく、自分の罪の姿を認めつつ、その罪に居直らないことが大切だと思う。ましてやその罪に染まった自分が、人を非難し、赦さずに裁いている…その姿の愚かさ・滑稽さに気付くことこそ大切なのだ。
旧約の箇所はヨセフ物語のクライマックス、自分をひどい目に遭わせた兄たちとの和解と赦しの場面である。兄たちの嫉妬と憎悪により外国の地に売られ、エジプトで苦労をしながら食料担当大臣の登りつめたところに、飢饉で食料を求めにやって来た。兄たちは気付かないが、ヨセフは気付いていた。そしてとうとう名乗り出て赦しと和解を申し出るのである。
ヨセフは兄たちとすんなり和解できたわけではない。仕返しのような仕打ちも行なっている。しかし最終的には和解へと至るのだが、それはなぜ可能だったのか。その秘訣を示すのが今日の箇所だ。
ヨセフは言う「私をここに遣わされたのは、あなたがたではなく神です。飢饉の苦しみからあなた方を救うために、すべては神が定められたことだったのです」と。
自分の思いや感情にしがみ付く限り、私たちは怒りや憎しみを超えることはできない。しかしそこに人知を超えた別のまなざしが感じられる時、窓が開いて風が吹き込んでくる。どんな理不尽な出来事でも、その背後に人知を超えた神の導きが信じられる時、私たちは赦しの道へと押し出されていく。そして気付かされるのだ。私たち自身が神に赦されて、慈しみを受け、神の愛のうちに生きているものだということを。
歳を取り、イライラして生きるのはやめましょう。時には空を見上げながら自分のちっぽけさを知り、そんな自分をそれでも生かして下さる神の憐れみに感謝して、赦し・憐れみ・愛を大切に生きる者となりましょう。