『信仰による奇跡』

2021年10月3日(日)
ヨシュア記6:1-5 ヘブライ11:29-34

旧約は、モーセの後継者・ヨシュアによる、エリコ攻略の場面である。このような箇所を読む上で気をつけたいことがある。奴隷から解放されたイスラエルのカナン定住について、聖書の文脈では「約束の地」に導かれた「救いの出来事」と受けとめられる。しかし、先住民のカナンびとの立場から見れば、それは侵略である。歴史の中に、同じように多民族の侵略によって土地を奪われた人々がいることを忘れないようにしたい。

さて、モーセ亡き後、イスラエルの民はヨシュアに導かれてカナン攻略の準備をする。エリコの街に偵察隊を送り街の様子を探らせるが、相手に見つかってしまい窮地に陥る。これを救ってくれたのが遊女ラハブであった。彼女に匿われて難を逃れた偵察隊は、ヨシュアの元に帰り報告し、いよいよエリコ攻略作戦が実行に移される。

エリコの街には強大な城壁が築かれていた。攻略にあたってこの城壁をどう打ち破るかが課題であった。そんな人々に向けて、主なる神ヤハウェが授けられた作戦は、驚くべきものであった。祭司に角笛を吹かせ、民には鬨の声を上げさせる。その大きな音の振動によって、城壁の石を崩させよ、というのである。

ヨシュアが言われた通りに行動すると、鉄壁に思えたエリコの要塞の城壁が、音を立てて崩れた。イスラエルはそこから城内に攻め込み、エリコを占領した。角笛の音、人間の叫ぶ声、その振動が地面を揺らし、石垣を崩壊させたというのであるが、「ジェンガじゃあるまいし!そんなのあるわけがない!」と思ってしまう。そのあるわけないことが起こった。だから「奇跡」なのである。

この物語からふたつのメッセージを受けとめたい。一つは、この闘いは「音による闘い」、つまり武器によらない闘いだったということだ。このことが、数千年の時を経て、ある人たちの別の闘いに挑む人たちを励まし、勇気を与えるものとなった。公民権運動(アメリカ黒人人権運動)である。

キング牧師たちリーダーのポリシーは「非暴力不服従」、つまり力に頼らない闘いだった。人々は暴力を受けてもやり返さず、デモ行進、座り込み、プラカードにより差別撤廃を訴え続けた。中でも人々に力を与えたのが「歌」だった。今日の箇所をテーマとした「エリコの闘い」というゴスペルを歌い、勇気を振り絞って、歌=人間の声の力で闘いを続けたのだ。

もうひとつのメッセージ、それはヤハウェの命を受けたヨシュアと民が、その命じる言葉を疑わずに実行に移したということだ。強固な城壁を角笛と人間の声だけで崩せ…などというのは現実離れした非常識な命令だ。「もっと現実的、常識的に考えようよ」という判断が生まれても仕方ない。しかしそのような「現実的・常識的」な判断からは、奇跡もまた生まれることがないのだ。

1950年代のアメリカで、黒人と白人が共に交わり共に歩む…などということは、「非常識・非現実的」な夢物語であった。しかしその「現実」に流されず、「常識はずれ」なことに「歌いながら」挑戦していった人々。そんな人たちの歩みの積み重ねによって、黒人と白人が共に生きるという「奇跡」と思えるような出来事が、あちこちに生じていったのである。

「奇跡」とは何の決断も努力もなしに、天から降ってくるものではない。あり得ないような事柄であったとしても、信仰により決断し、行動する人々の、その行く先に与えられるものなのである。