2021年11月7日(日) 召天者記念礼拝
創世記15:1-6、ヤコブ2:18-26
人類は古代から自分たちの存在を越えた神々に祈りをささげ、さまざまな祈願をしてきた。とても素朴な信仰ではあるが、自分の願望が主であるという意味では、自己中心的な信仰でもある。
そんな中に、「人間の願望をかなえる神」と求めるのではなく、神の願望(みこころ)を人間が聞き、それに従うという形の信仰を抱いた人が現れた。アブラハム、聖書の民イスラエルの祖先となった人である。
彼は裕福な家に生まれたが、ある日神の呼びかけを聞く。「あなたは父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。あなたを多くの国民の父としよう。」この声に従い、アブラハムは旅立った。「神の召命を受けて従う信仰」それは、それまでの人類の信じ方とは異なるベクトルを持つ信仰の形、一種の信仰革命である。
聖書では偶像崇拝を禁止する。それは「像を拝む行為」そのものの禁止というよりは、人間の願いに都合よく応える神を求める信仰を戒めたということだ。イスラエルの目指す信仰は、「人間の願いを聞く神」ではなく、「神の願いを聞く人間」をこそ求めるものである。そんなの信仰のあり方をひと言で表す言葉がある。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6)
そんな信仰を究極的に表しているのが、イサク奉献の物語である。永年子どもが授からなかったアブラハムに、百歳になってようやく息子イサクが生まれた。ところが、あろうことか神はそのイサクを「いけにえとして献げよ」と命じられるのである。
どうして神がそんなむごい命令をされるのか。学生時代に指導教授が「この物語が分からなければ、ユダヤ人のことは本当には分からない」と言われた。当時はその言葉の意味が分からなかったが、今思えばそれは「人間の願望に仕える神」ではなく、「神のみこころに聞き従う人間」という信仰、その究極の姿が表されているということなのだろう。
それにしてもつらい道である。アブラハムには葛藤がなかったのだろうか?きっとあったに違いない。けれどもそれでも泣く泣く下した判断は、神の命に従うということだった。彼がイサクに刃物を振り下ろそうとした時、「もうそれでよい」という神の声が響いた。
私たち人間は感情や情念を持って生きている。そしてしばしば、それらのものにたやすく引きずられてしまう。しかし「神を信じる信仰」においては、時にその感情や情念とは異なる決断を迫られることもあるのだ。
日本基督教団の最も大変な時期に教団議長をつとめられた大先輩の牧師が、苦労に満ちた議長としての歩みを振り返って、こんなことを言われた。「決断を迫られ、困った時、迷った時、『しんどいなぁ、いややなぁ…』と思う方に決断しておけば、たいがい間違うことはなかった」。先輩牧師にとって、「しんどいなぁ、いややなぁ…」と思う方に決断することが、神を信じる信仰だったのだろうと思う。
いつもいつもそのような決断を下すことは「難しいなぁ…」と思ってしまう私たち。しかし長い人生のたった一度でもいい、どこかの局面で「神を信じる信仰」による決断ができたなら、私たちもあのアブラハムに示された言葉によって祝福を受けられるであろう。「その人は神を信じた。神はそれをその人の義と認められた。」
今は天に帰られた、先達である召天者ひとりひとりにも、そのような決断に身を委ねられた、そんな歩みがあったに違いないと思う。私たちもその歩みに倣い、神を信じる信仰に身を委ねることのできる者でありたい…召天者記念礼拝の日に、改めてそんな思いを心に刻もう。