2015年1月11日(日)
出エジプト記18:13-27
ルカによる福音書3:15-22
朝の連続ドラマ、直近の2作品でいずれも挿入歌として歌われた“The water is wide”(邦題『広い河の岸辺』)が静かなブームのようだ。広くて渡れない川を前に「ボートをください、そうすれば愛する人と共に渡っていける」と歌うこの歌詞が、仕事に行き詰まったサラリーマンや闘病生活を続ける人、震災の被災者たちを支え励ましているというのだ。
「川を渡る」「海を越える」。それは聖書の文脈では、神の与えられる救いに向けて一歩あゆみを進める営みを象徴している。
出エジプトの民が、脱出した先の葦の海でエジプトの軍隊に追いつめられた時、モーセが手にしていた杖を海に差し出すと海の水が真っ二つに割れて道が現れ、人々はそこを進んでいったという『海の奇跡』が起こった。そして今、約束の地・カナンに向かおうとしているイスラエルの民の前に、ヨルダン川が横たわっている。
自由への道・神の救いに向かう歩みには、苦労が伴うことがある。そんな時人は、未来の自由よりも過去の安定の方を懐かしむ心をつい抱いてしまう。川を渡る決意が持てないのだ。しかしモーセに代わってイスラエルを率いるヨシュアは、優柔不断な人々を説き伏せ、持ち上げ、川を渡る決意を促していく。彼らが川の水に足をつけると、水が堰き止められ道が現れた、と記される。『葦の海の奇跡』の再来である。川を渡るには苦労が伴う。しかしそれでも川を渡る決意をする者に、神は必ず道を備えて下さる。
後半の箇所はイエスの受洗の場面だ。宣教活動、いわゆる「公生涯」に入る前に、イエスはヨハネからバプテスマを受けられた。それはイエスの信仰生活の集大成としてではなく、「新しい始まり」を意味するものだった。バプテスマは決して信仰の「ゴール」ではないと思う。それはイエス・キリストと共に歩む新たな旅の「スタート」なのだ。
CSのお母さんたちとの入門講座で、洗礼を受けようと踏み切るのに大切なものは何かという話題になった。最後に決め手となるのは、キリスト教の知識や、教義への納得ではなく、「プールに飛び込む決意だ」と申し上げた。初めて飛び込むにはそれなりの勇気がいる。しかし飛び込んでみなければ分からないことがある。地上でどんなにフォームを固めても、それで泳げるようになるわけではない。飛び込んで、最初は水を飲みながら、手足をバタバタさせながら、次第に泳ぐ喜びや快感へと導かれていく。
すでに洗礼を受けた人にとっても、第2第3の「川に飛び込む勇気」は必要だ。ひるみそうになる時には思い出そう。わたしたちはひとりではない、ということを。はるかに先立って川を渡られたイエス・キリストがおられる。そして、共にボートを漕いでゆく仲間がいる、ということを。
The water is wide, I can’t cross over 河は広く 渡れない
And neither have I wings to fly 飛んでゆく 翼もない
Give me a boat that can carry two もしも小舟が あるならば
And both shall row, my love and I 漕ぎ出そう ふたりで