『人が見るようには見ない神』

2021年11月21日(日) 楠元桃伝道師
サムエル記上16:1-13

礼拝のスタイルが、2部形式から以前のような1部にまとめられたものに戻った。コロナ状況がだいぶ落ち着き、生活も緊急事態宣言のときのような緊張感は少なくなったように思う。しかしきっと第6波はやってくるだろうし、まだまだ終わりのない緊張の中で生きていかなければならないだろう。心がざわざわするような毎日だが、そんなときにこそ、聖書の言葉は私たちの心にしみ込む。

今朝の聖書はダビデ王が最初に見いだされ、油注がれる場面が描かれている。見いだした者は神の僕、サムエル。幼いサムエルが神の声を聞いている場面の絵(レイノルズ作)はとても有名であるが、成長した彼は、祭司・預言者・士師として活躍するようになる。彼の晩年、イスラエルの民に請われてサウルを王として選ぶが、サウルの心が次第に神から離れていったため、次の王としてダビデを召しだしたのである。

その選びの中で神がサムエルに告げた言葉が今日の説教の中心にしたい言葉である。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映るところを見るが、主は心によって見る。」(7節)

私たち人間は少しでも自分をよく見せようとする。外見を気にして、中身の成長をおろそかにはしていないだろうか。一人の人間としてどのように生きるか、生き方、考え方がすてきなものになると、佇まいも雰囲気もすてきなものになる。中身をみがくことができれば、きっと外見も整っていくことだろう。

今日は収穫感謝礼拝。たくさんの野菜や果物を礼拝堂に飾り、礼拝を守る。私たちの命はこれらの収穫物によって保たれている。野菜だけではなく、肉や魚にも。肉や魚は、私たちの食卓に上がるまでに当然、牛や豚、鶏、魚の命を犠牲にして切り身となってやってくる。私たちの命は彼らの犠牲の上に成り立っているのである。

それなのに、同じ命をいただいているのに、私たちは少しでも見た目の良いものを選ぼうとする。東京のスーパーでは曲がったキュウリは売っていない(20年前は)。曲がったキュウリを食べて育った私には衝撃の事実。曲がったキュウリは売れないそうだ。同じキュウリなのに、ちょっと曲がっただけで売り物にならないとは。それほどまでに私たちの世界では見た目重視なのだろうか。

神は「人が見るようには見ない」のである。神は私たち人間をお造りになって「よし」とされた。神の目には私たちはそのままで良い存在なのである。そんな自分に自信を持って、自分を好きになって、神がお造りなった他者をそのまま受け入れて共に歩んでいきたい。

♪一羽のスズメに目を注ぎたもう 主は我さえも支えたたもうなり♪(新聖歌285番)