2021年11月28日(日)アドヴェント第一主日
イザヤ51:9-11,Ⅰテサロニケ5:1-11
23日の休みの日、赤城山麓にお住まいの方々を訪ねて、自転車で出かけた。ずっと登り道、途中で押して歩くだろうと思っていたが、ほとんどの行程を降りずにペダルを漕ぎ続けることができた。あきらめそうになった時もあったが、先行きの道のりを知っていたので、「この坂の上まで」「あの四つ角まで…」と奮い立たせて頑張ることができた。様々な苦労も、その終わりが見通せると、耐え忍ぶことができる。
アドヴェントに入った。教会の暦はアドヴェントから新しくなる。キリスト誕生という中心から、ではなく、その中心的な出来事を「待つ」というところから暦が始まるのである。その「はじまりの日」である今日、与えられた聖書の箇所は、世の終わりについて語る内容である。
神が創られた世界には、はじめがあり、終わりがある…そしてその終わりの日には最後の審判が行われる…それが聖書の世界観である。いわゆる「終末論」である。何ともおどろおどろしいその記述を読むと、私たちは「そんなことあるもんか!」と思う。終末・最後の審判に対して抱く恐怖につけ込んで、「悔い改めよ!死後裁きに遭うぞ!」という形で布教する人々を見ると「勘弁してくれよ…」と思ってしまう。しかしすべて命あるものに「死」が訪れるように、この地球という星にも最期の時がやって来るのは確かなことなのである。
ところで、聖書のこれらの終末論が、最も強く意識され語られるようになった時代がある。それはバビロン捕囚や初代教会の迫害の時代のような、苦難の時代である。「我々を苦しめる圧政者の支配もいつまでも続くわけではない。この苦しみには終わりの時が必ず来るのだ!」そのような物語が、現実の苦しみの中を歩む人々を励まし、希望を与えたのだ。
「神は私たちを怒りに定められたのではなく ・・・ 救いにあずからせるよう定められた」(5:9)とある。イエス・キリストに結ばれた者にとって、終末とは神の怒りによって裁かれる日ではなく、神の救いが完成する日なのである。
「その日は突然やって来る。だから目を覚まして備えていなさい」と記される。では「備えている」とは具体的にどんなことをすることだろうか?パウロが示すのはあっけに取られるくらいシンプルで日常的なことである。
「互いに愛をもって尊敬し合い、平和に過ごすこと」「怠けた者を戒め、気落ちしている人を励まし、弱い人を助けること」「すべての人に忍耐強く接し、善を行なうこと」「いつも喜び、絶えず祈り、感謝すること」等々…(5:12-16) 特別な能力は必要ない。誰もが心がけ一つでできる身近なことである。
しかしシンプルで身近なことではあるが、それを続けるのは簡単なことではない。自己中心的な私たちはすぐに道を外れてしまうからである。だからこそそんな自分をしっかり見つめて「いつも主と共に生きること」(5:10)が大切なのだ。
その「終わりの日・始まりの日」、即ち神の救いの訪れの日であるクリスマスに備える季節が、今年もやって来た。コロナウイルス状況の試練・苦難の中で、2年にわたり掲げてきた年間聖句「いま泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」との御言葉を信じ、今年もその日を喜び迎えよう。