2022年1月30日(日)
マルコ1:40-45
新型コロナウイルス感染が始まった時から「感染した人を差別・排除しないようにしましょう」と言い続けてきた。それは私が差別をしない「正しい人」だからではない。病気でのパニックに置かれた時、人間がいかにたやすく差別的な心情を抱いてしまうかを何度も経験してきたからである。イエスから示された「共に生きる」という道を求める上で、「病気と差別」の問題は避けて通れない課題である。
重い皮膚病人の癒しの物語は、いくつもの大切なポイントを含むエピソードだ。医学の未発達な古代聖書の時代には、「恐ろしい伝染病」と受けとめられ、神の罰を受けた人とされていた。街の中に住むことを許されず、誰かが近づいて来たら「ここには汚れた者がいます」と叫ばねばならなかった。病気による「肉体の苦しみ」、共同体から排除された孤独という「社会的な苦しみ」に加え、神からも見捨てられた「宗教的な苦しみ」を背負う人である。
そんな彼の耳にイエスのうわさ(悪霊を追い出し、人々を癒す)が聞こえてきた。「この人なら私のこの苦しみを取りのけて下さるかも知れない」そう思った彼は、イエスの元に進み出て「みこころならば清めて(癒して)いただけるのですが…」と申し出た。
この時点でこの人は掟破りである。杓子定規な律法学者なら「お前はここに来ちゃだめだ!」と追い払っただろう。しかしイエスは「深く憐れまれた」。ギリシャ語の原語では「はらわたが痛む」という言葉が使われている。その人の苦しみを自分のことのように受けとめるイエスの姿がある。
イエスはその人の体に触れ、「そうしてあげよう、清くなれ」と言われると、重い皮膚病は去った…と記される。ここで大事なのはイエスが彼の体に触れたことだ。「そんなことしたら、病気がうつる」それが当時の常識である。即ちそれは「この人の悲しみを受けとめられるなら、うつってもいい」という振る舞いなのだ。そっと手を触れただけだろうか?私はその人をしっかり抱きしめるイエスの姿を想像する。病気が治ることだけが癒しではない。その人の全存在をイエスが受けとめられた…それが「ほんとうの癒し」なのだ。
癒された人にイエスは「このことを誰にも言うな」と言われた。変な評判が立つことを避けようとされたのだろうか。しかし「祭司に体を見せ、清めの献げものをして、人々に証明しなさい」と命じられる。つまりこれは社会的な関係の回復へのうながしである。隔たれた人間関係を取り戻し、社会復帰をする、それも大切な「癒しのわざ」なのである。
ハンセン病国賠訴訟の原告団長・曽我野一美さんは、裁判で歴史的な勝訴を勝ち取られた。しかしその後も自分のふるさとにはなかなか帰れなかったという。差別・偏見が根強く残っていたからだ。しかし後年、故郷の親戚の方から「地元の名産の天然ウナギを食べにおいで」と誘われたという。故郷の人と再会し、共にウナギを食したその時、曽我野さんは本当の意味で癒されたと言えるだろう。
イエスの言動は「ほんとうの癒しの業」を示してくれる。コロナ状況の中、改めてイエスの歩みに学びつつ、日々を過ごしたい。