2022年2月20日(日)
列王記下4:32-37、マルコ2:1-12
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と聖書にある。それだけでなく、信仰とは時にとんでもないことを人の心に呼び起し、時にとんでもない行動へと人を駆り立てるものである。
旧約はエリシャとシュネムの女性の物語。彼女がエリシャの活動を支援したことへの感謝のしるしとして、エリシャの祈りによって彼女は念願の子どもを授かる。ところがある日突然、その子どもが死んでしまう。しかしエリシャがその子の上に覆いかぶさると、その子は息を吹き返した。
この物語は、エリシャに預言者としての偉大な力が宿ることを誇示するものなのだろうか。いやむしろ、その子どものことを思う母親と、その母親の悲しみに寄り添うエリシャの気持ち、即ち人を思いやる「愛」が起こした奇跡だと言えよう。信仰とは「死者の復活」という「とんでもないこと」を願う心を呼び起こさせる。
新約は今週もイエスによる癒しの物語である。すでに見てきたように、イエスは宣教の初めから病人の癒しを大切なわざとして続けてこられた。そのことが評判となり、イエスの行かれるところには大勢の人が詰めかけるようになった。今日の箇所でもイエスを頼る人々が大勢集まり、家の戸口まで一杯になったと記される。
するとそこにひとりの「中風の人」が4人の友だちによって運ばれてきた。ところが家の中は人で一杯で、イエスの近くに寄ることができなかった。
そこで彼らは思いもよらない行動に出る。家の屋根に上り、屋根を壊して穴をあけ、上からイエスの元に中風の人を吊り降ろしたのである。日本と違い、パレスチナの庶民の家屋は藁をしっくいで固めた程度のものであった。瓦屋根ではないので、私たちがイメージするほど「大工事」ではない。
しかしそれにしても、である。人の家に現れて、いきなり屋根を壊す…それは決して褒められない、非常識な行動である。しかしそんな彼らの行動に、イエスは「その人たちの信仰を見られた」と記される。そして中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われた。「病気の原因はその人の罪だ」と信じられていたからである。
イエスは秩序やルールを破ってまで、友人の救いを求める彼らの「愛」に、信仰を見られた。隣人への愛のためならば、時に非常識な行動にも出ることができる…それはすぐれた信仰のわざだということだ。信仰とは、時にとんでもない行動へと人を駆り立てる「愛のわざ」なのだ。
イエスもまた、「非常識な信仰」に生きられた。律法の掟に背く形で重い皮膚病の人を清め、安息日に人を癒された。そして今日の箇所では、本来神の権限である「罪の赦し」を語られた。律法学者から非難されることを承知の上でそのように行動されたのだ。
「信仰」とは、秩序のうちに行儀よく納まって体裁を保つことではない。信仰とは時に秩序から逸脱しても、隣人への愛に向かうものなのである。