『 神さまのみこころにしたがうため 』川上 盾 牧師

2022年4月10日(日)棕櫚の主日
マルコ14:32-42

♪「わたしたちの罪のため、十字架にかかった主イエスさま(旧こどもさんびか38)」という歌がある。私は子どもの頃、このことがよく分からなかった。「2000年前の人たちがやったんやろ?僕のせいやない!」と思っていた。確かに実際の下手人は2000年前の人たちだ。しかし自分がイエスをとりまく状況にいたら、自分もまたイエスを十字架にかけようとしたひとりだったかも知れない…そのような思いでふり返ることが重要だと思う。

自分のメンツを保つために対立するイエスを憎む律法学者の心、勝手にイエスに期待し、期待外れと知ると「十字架につけよ!」と叫ぶ群衆のような心、お金への欲望のためにイエスを裏切るユダの心、我が身かわいさにイエスを見捨てて逃げたペトロや弟子たちの心、真実を知りながら自分の地位を保つために死刑執行の認可を下したピラトの心…そういった心が自分の中にあるのではないだろうか。

そんな心が渦巻く中でイエスはひとり、十字架への道を歩まれた。今日の箇所は逮捕される直前の、ゲッセマネの祈りの場面だ。「この杯をとりのけて下さい」と祈られる前半の祈りは、まさに悩み苦しむひとりの人間の姿だ。イエスは「超人・スーパースター」として十字架への道を邁進されたのではなく、私たちと同じような弱さや不安を抱えながら歩まれたのだ。

しかしイエスはそこでぐずぐずに崩れ落ちてしまわずに、もう一つの祈りを祈らることによって前に進まれた。それが「私の願うことではなく、みこころに適うことが行われますように」という後半の祈りだ。

誰もが避けたいと願う苦難の道…けれども誰かがやらねばならない…そんな中で迷い尻ごむ人に対して、目を開かせ、背中を押す祈り…それが「神さま、何があなたのみこころですか?」という祈りである。

今年のレント、ウクライナ戦争の状況に心を痛めながら過ごしてきた。そんな中、ひとりの女性の姿に衝撃を受けた。生放送のニュース番組で「戦争反対!フェイクニュースに騙されるな!」というプラカードを掲げて放送中にアピールされたのだ。彼女はニュース番組のスタッフだった。現実を知る立場にあった彼女は、自分の身に危険が及ぶことを承知の上で行動した。そしてそのために逮捕・拘束されたという。

他にもロシアには「汝殺すなかれ」と書いたプラカードを持って教会の前に立ち、逮捕された人もいるという。すべてのロシア人が戦争を支持しているわけではない。戦争に反対する市民もいるのだ。

この人たちを行動へと促したのは、平和への強い思いである。私には彼女・彼らは「いま、この状況の中で、何が神の御心なのか」ということを考え行動した人だと思えてならない。

日本も他人ごとではない。今回の戦争をめぐって、日本の再軍備や核武装の話が頭をもたげ始めている。ウクライナの出来事を「対岸の火事」と受けとめるのではなく、戦争に至る道を黙認しないことを大切にしたい。平和への思いを強く抱き、「何が神の御心か」を尋ね求めつつ歩もう。