『 裂け目から光は射し込む 』

2022年4月17日(日)イースター
マルコ16:1-8, Ⅱコリント4:7-14

キリスト教信仰の真髄、それは復活信仰である。イエスの十字架の死は、弟子たち・信じる人たちにとって絶望のどん底に落とされるような出来事だった。「もうだめだ、おしまいだ…」しかしその絶望の中から、神は新しいことを始められる…それがイースターのメッセージである。女性たちが墓を訪れた時見たのは、イエスの遺体ではなく、空っぽの墓だった。それは新たな物語の始まりなのである。

昨年放映された朝の連続ドラマ『エール』で、薬師丸ひろ子が「うるわしの白百合」を歌うシーンがあった。太平洋戦争終了後、丸焼けになった自宅を訪れた場面、最初は陰鬱な表情で歌い始めた光子(薬師丸)だが、歌う中で顔に生気が戻り、歌い終える頃には希望に向かっていた。復活信仰が人間を再生させることを映し出す、見事なシーンであった。

復活の信仰を抱いたからといって、すぐに問題が解決するわけではない。焼け跡の瓦礫を、自分たちで一つずつ拾い上げていかなかければならない。しかしそのただ中を生きる人の心を、「もうだめだ、おしまいだ!」という絶望から、「まだ終わりではない、ここから新しく始まるんだ」…そんな思いへと導いてくれるのが復活信仰である。

コリントの教会はパウロを悩ませた問題の多い教会だった。教会内の分派争い、性的な乱れ、偶像崇拝、主の晩餐(聖餐)における差別、復活信仰の否定…パウロは一つ一つの問題に対し、時には厳しく咎め、時には赤裸々に忠告し、その中で何が神の御心なのかを指し示そうとした。

パウロにそれができたのは、彼がコリントの人たちより一段上の、正しい立派な人だったからではない。パウロ自身も自分の弱さを知っている。その弱さを支え補う神の力を信じていたから、語れたのである。

「私たちは神の宝を土の器に納めています」(7節)。一人一人の人間は決して完璧ではない「土の器」だ。あちこちに欠けや裂け目がある。その裂け目から神の光が差し込み、神の並外れて偉大な力が働くのだ。そのことを信じようじゃないか…パウロはそのように呼びかけるのである。自分の弱さを隠さず、むしろ大らかに認めて、その裂け目から射し込む神の光を信じるのである。

台湾のコロナ対策で活躍したオードリー・タン氏は、ITテクノロジーを駆使して見事な方策を実現した。そのタン氏が「コロナ後の世界をどう生きるべきか」というシンポジウムでこんな発言をした。「様々な裂け目は私たちの人間性です。だからそれをのぞき込むことを恐れてはなりません。光はそこから射し込むのですから」。コンピューターは完璧な機械、しかしそれを扱う人間は不完全である。その不完全さを見つめることが未来の希望につながるというのだ。

「もうだめだ、おしまいだ」と思う状況があっても、「でも大丈夫、何とかなる」「神さまが道を拓いて下さる」そのことを信じるのが復活信仰、私たちの求める信仰の歩みである。