『 共に夢を見て、共に笑おう 』

2022年4月24日(日)
詩編126編

コロナウイルス感染が始まったばかりの2年前、教会の年間標語として掲げたのは「いつか笑える日が来ると信じて」というものだった。未知の病気の蔓延で世界中でバタバタと人が亡くなっていっている…恐れと不安で心が締め付けられるような中で、「いま泣いている人は幸いだ。笑うようになるからだ」というイエスの言葉にすがるようにして絞り出した言葉だった。今振り返ると、この言葉には当時の悲壮感が込められていたと感じる。

それから2年がたち、状況はずい分変わってきている。病気を完全に克服できたわけではないが、感染者の数値に右往左往することはなくなった。油断は禁物だが、この病気との向き合い方がだいぶ分かってきたからだろう。私たちの社会は、非日常からゆるやかに日常に向かって進んでいる。

今年度の教会の標語は、詩編126編に基づき「共に夢を見て、共に笑おう」とした。この詩編は、バビロン捕囚から解放され、シオン(エルサレム)への帰還の途上にある人々の状況が反映されているものだと言われている。

捕囚の苦しみは60年に及んだ(コロナ2年、太平洋戦争4年)。半世紀以上の苦難の日々は、人々の魂に相当なダメージを与えたようだ。捕囚から解放されても、すぐに復帰への歩みが始まる…とはいかず、萎え切ってしまった人々の心を再起させるのは容易ではなかった。そんな人々に向けて、神さまに頼りつつ希望を抱いて歩む大切さを示すために、この詩は綴られた。

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。」詩人が呼びかけるのは、再び夢を見ることの大切さ、そして共に笑うことの大切さだった。

後半にはこう記される。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」捕囚の苦しみの期間中、人々はそれをただ嘆いて暮らしていたわけではなかった。「この苦しみは、我々が神を忘れていたことへの報いだ」と受けとめた人々は、自分たちの信仰の原点を見つめ直す作業に取り組んだ。例えば旧約聖書の編纂は、この時期にかなり進んだという。

将来の世代が信仰を保って生きられるために聖書を編纂した。彼らは涙を流しつつ種を蒔いたのである。その「涙の種まき」が、喜びの笑いを伴う収穫の日に必ずつながるとの確信が語られている。

コロナ後に向かう私たちの状況は、バビロン捕囚後の人々の状況に似ているかも知れない。萎えてしまった心を新たに立ち上げるためには、共に夢を見ることが必要だ。教会の未来についてわくわくしながら思い巡らし、語り合い、苦しみの涙が喜びの歌に変えられる日が必ず来ることを信じよう。みなさん、神さまの導きを信じて、共に夢を見、共に笑いましょう!

(教会総会の主日の礼拝メッセージ)