2022年5月1日(日)
エゼキエル34:11-15 ヨハネ10:11-18
遊牧民をルーツに持つと言われているイスラエル民族。聖書には羊と羊飼いに関する言葉が何ヶ所か記されている。羊は臆病な生き物で常に群れを作り生活する。自分で判断して動くのではなく、群れの動きに従って行動する。それゆえに、群れを導く羊飼いの働きが重要になる。羊飼いが道を誤れば、群れ全体が道を見失うからである。
エゼキエルは、バビロン捕囚の苦しみの中での「牧者」=宗教指導者に対して、厳しい批判の言葉を記している。「わたしの群れが略奪にさらされ、野の獣の餌食になろうとしているのに、牧者たちは群れを探しもしない。群れを養わず、自分自身を養っている。」(エゼ34:8)それらの頼りない牧者に代わって、神ボ自身が羊を探し、養われると記される。教会の牧師としても大変身につまされる言葉である。
ヨハネでは、その神さまに代わって、人間の世界に与えられた新たな牧者について語られている。「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」。その良い羊飼いとは、言うまでもなくイエス・キリストである。
「共にために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」イエスはそう教えられた。そして言葉だけでなく、ご自身の生涯でその愛を実践された。いと小さき者・弱き者の友となり、彼らを苦しめる宗教指導者とたたかわれた。そしてその結果十字架に架けられた。
イエスが自分たちのために十字架に架けられるのを見て、イエスの愛を受けた多くの人は理屈抜きに思ったことだろう。「あぁこの方は私のために命を捨てて下さった」「友のため、羊のために命を捨てる…あの言葉は偽りではなかったのだ」と。
その時これらの人の中でイエスの存在はこれまで以上に大きなものとして迫ってきたに違いない。そんな人たちの中でイエスはまだ生きているのである。十字架をもってしても、イエスの「いのち」を終わらせることはできなかったのである。「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」(ヨハ10:14)ここにはイエスと、信じて歩む人との信頼関係が表されている。
「羊飼いでない雇い人は狼が来ると羊を置き去りにして逃げる。」(10:12) 牧師はこの言葉にいつも問われている。「お前は羊のために命を捨てられるか?」と問われて、「はい、できます!」と即答できない弱き者である。そんな中で「まことの羊飼い」であるイエスを指し示そうと心がけているが、時に迷うこともある。
ところで、羊の群れの中で、危険を察知したり、おいしそうな草を発見したりして、最初に動く一匹がいる。すると他の羊はそれについてゆき、結果的に危機を逃れたり、よい思いをすることができる。この「最初の一匹」は特別な才能が必要なわけではない。自分の置かれた状況の中で直感的に行動する一匹である。そんな「最初の一匹」には、誰もがなれるのではないか。
よい羊飼いであるイエス・キリストに、心をつなげて従ってゆこう。