『 豊かに実を結ぶ 』川上 盾 牧師

2022年5月15日(日)
出エジプト19:1-6 ヨハネ16:16-20

以前赴任していた教会で、庭のぶどうの木の世話をしたことがある。世話をしないと虫にやられてしまい、放っておくと元の木まで枯れることがあるという。虫が入った枝を見つけてはそれを切り落とすことで、実を結ぶことができた。ぶどうの世話とは枝を切り落とすことだと知った。

ぶどうの栽培が盛んなパレスチナで編まれた聖書には、ぶどうの譬えがしばしば登場する。イザヤ5章には、神とイスラエルとの関係を示す譬えが記される。神から「あなたがたはすべての民の間にあって、私の宝」(出エ19:5)と言われたイスラエル。しかしその神の愛を裏切る現実を、イザヤは「すっぱいぶどう」と表現する。そして「ぶどう畑の囲いが取り払われ、焼かれるにまかせ、これを見捨てる」というのである。

その言葉通り、北王国イスラエルはアッシリアによって滅亡する。では、神はイスラエルを見捨て、見限ってしまわれたのか?そうではない。苦難の中にある人々に向かって語られたのが「暗闇の中に光が照った…ひとりのみどりごが与えられた」(イザ9:2)という、あのメシヤ預言である。

新約はそのメシヤとして世に来られたイエスの言葉である。イエスと弟子たち・信じる人たちとのつながりを、ぶどうの木と実に譬えている。「実を結ばない枝は、父が取り除かれる」と辛辣な言葉が記される。これを裁きの言葉ととらえると厳しいものになるだが、ぶどうの木の世話をした経験からは、正しい栽培法だとも言える。この言葉を私たちはどうとらえればよいのだろうか?

基本的にイエスの示された神は赦しの神である。失われた一匹の羊を探し求め、放蕩に身を持ち崩した息子を赦して受け入れる…そんな神の姿をイエスは何度も語っている。しかしだからと言って、私たちの罪や過ちの現実を「なかったことにして見逃す」方ではない。見逃したのでは豊かに実を結ぶことはできない。それは枝の中に入った虫の幼虫を見逃すことだからである。

だから神はぶどうの木の手入れをされる。虫がついた兆しが見えたならば、大事に至らにようにその小枝(罪)を切り落とされる。そのようにして私たちが豊かに実を結ぶことができるように導いて下さるのである。

一連のイエスの言葉は、結果として実を結べなかった者への裁きの言葉ではない。「わたしにつながって、豊かに実を結びなさい」という招きの言葉なのである。

イスラエルの民やイエスの弟子たちのように、私たちも自分の力だけではなかなか「わたしの宝」と呼ばれるのにふさわしい歩みを生み出すことができない。なかなか実を結べず、すっぱい実をつけることしかできないような、不確かで危うい存在である。でも、だからこそイエス・キリストにつながり続けることが大切なのだ。

情けない自分にあきらめないで、イエスにつながっていよう。それすれが私たちは、いつの日か必ず豊かに実を結ぶことができる。そう信じよう。