『 父への願い 』川上 盾 牧師

2022年5月22日(日)
創世記18:23-26 ヨハネ16:20-24

私たちが祈る時「イエス・キリストの御名によって…」と祈る。その根拠となっているのが今日の新約の箇所である。「わたしの名によって父(神)に願うならば、父はお与えになる」。ヨハネ福音書には同様のイエスの言葉がいくつも記されている。では、イエス・キリストの名によって祈れば「どんなことでも」かなえられるのだろうか?

旧約の箇所も神に祈るアブラハムの姿である。「祈る」というよりも、直談判・折衝という方がふさわしいかも知れない。それはソドムとゴモラの二つの街をめぐる、アブラハムと神とのやりとりである。

「ソドムの住民は邪悪で、主なる神に対して多くの罪を犯していた。」(創世記13:13)神さまのみこころに反して自堕落な生活にふけっていた街に対して、裁きが下されそうとしていた。その計画に真っ向から立ちふさがり待ったをかけたのがアブラハムだった。

かつてアブラハムは、「父の家を離れ私の示す地へ旅立て!」という神さまの命を受けて、全てを捨てて旅に出た人だ。そのアブラハムが、この場面では神さまの計画を何とか阻止しようと立ち回るのである。

「この街には50人の正しい人がいるかも知れません。なのにあなたは滅ぼされるのですか!?」そのように迫り、そして神に向かってこう語る。「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか!」この、捕らえようによっては不遜にも思えるアブラハムの申し出に対して、神は「50人の正しい人がいたら、ソドムの街を赦そう」と答えられた。

驚くのはその続きである。何とアブラハムは神さまに対して、そこからさらに「値引き交渉」を始めるのだ。「ではもし45人なら」「40人なら」「30人では」…。まるでバナナの叩き売りである。とうとうアブラハムは「その町に10人の正しい者がいるなら、滅ぼすことはしない」という神さまの言質を受け取るのである。

このアブラハムの姿に、私はものすごい迫力を感じる。「神の定めた計画だから…」といってあきらめるのではなく、何としてでも街の滅びを免れようと、あざとい交渉人の役割を引き受けるのだ。それは自己利益のためではなく、隣人の救いのために自らは十字架を負われたイエスの姿に重なるものだと思う。

「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)とイエスは言われる。本当に「何でもかなえて」下さるのだろうか?私たちの自己中心的な、わがままな願いでも?これについては先週のメッセージを想い起したい。

「私につながっていなさい。そうすればあなたがたは豊かに実を結ぶ」とイエスは言われた。イエスにつながっているなら、「自己中心的なわがままな願い」は出てこないはずだ。「自分の名によって」ではなく、「イエスの名によって」祈る父への願い、それは隣人のための祈りとなるはずだと思うのだ。