『 神を信じる信仰 』川上牧師

2022年6月19日(日)
歴代誌下15:1-8,使徒4:13-20

ひと口に「神を信じる信仰」と言っても、その現れ方は様々である。旧約聖書が示すイスラエルの信仰は、周辺地域のような神々を信じる姿ではなく、唯一の神・ヤハウェを信じる信仰である。

イスラエルは神々への信仰を「偶像崇拝」といって退ける。偶像崇拝とは、刻んだ像を拝むという行為自体ではなく、「この神さまを拝めば自分の欲望がかなえられる」という内面のことを意味する。人間の欲望に都合よく応えてくれる神を求める心、それが偶像崇拝の本質だ。

イスラエルはこれをひっくり返した。「人間の欲望に仕える神」ではなく、「神の御心に従う人間の歩みを目指す」という信仰だ。この唯一絶対神への信仰は、とても強いものである。しかしそこには排他的、独善的になりやすいという限界もある。

旧約聖書・南北朝時代に出てくる王たちの姿は、自分の欲望を優先し偶像に膝を屈める王と、偶像を捨てて律法に従う王という、2つのタイプに分けられる。今日の箇所に登場するアサ王は、神の律法を守り、神々の祭壇を取り除いた。ユダヤ人にとって最高の指導者としての王の姿だと言える。

しかし、たとえばこういう言葉が出てくる。「子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられる…」これをどう読むか。どこか恐ろしい世界のようではないか。人を脅して忠誠度を誓わせるのは、本当の豊かな信仰の姿ではない。豊かな信仰の世界では、人は恐怖心からではなく、感謝と喜びをもって神を信じ、従うはずだ。

一方の新約の箇所に記されるペトロたちの姿、それは神を信じる信仰の最高の形を私たちに見せてくれる。ペンテコステ以降、聖霊の導きにより力強く宣教を始めた弟子たちに対し、エルサレムの指導者(祭司長、長老、律法学者)たちは危機感を感じる。そして彼らを捕まえて「今後、あの名(イエスの名)によって語ってはならぬ!と迫った。イエスを十字架にかけた人たちが脅しをかけてきたのである。

これに対してペトロが返した言葉が「人に従うよりも神に従うべきです」というものだった。 ここに「神を信じる信仰」、その最高の姿が表されている。

彼らの信仰の源にある思いは何だったのだろう?そうしないと神さまに叱られるから?恐怖心?そうではなく、「イエス・キリストの教え・生涯は素晴しい!」そのことを心から信じる喜びだったのではないか。

神はイエスを、十字架の死からよみがえらされた…その神の力はどんな権力者をもはるかに超えるものである…そう信じる中から、このような力強い歩みが導き出されていったのだ。

今世界では、強権的な人々の勢力が、世を席巻しているような印象を覚える。日本も例外ではない。しかし私たちはそんな時代だからこそ、人に従うのではなく神に従う…そんな「神を信じる信仰」を求め続けたい。