2022年7月17日(日)
ガラテヤの信徒への手紙5:2-6)
私たち人間は、しばしば目的と結果を入れ替えてしまう。順番を間違える過ちを犯してしまうのだ。たとえば宗教団体に通常では考えられない高額の献金をする人がいる。そのことによって家庭崩壊していたことが、先日の事件の原因でもあった。
確かに信仰の世界ではこういうことは起こり得る。明治時代には家や畑を売って会堂建築の献金をささげた信徒の伝説がいくつもある。問題はその行為を生み出す順序である。神(キリスト)によって救いを得て、生きる拠り所が与えられた…そのことへの感謝の思いを表そうとして(目的)、たくさんの献金をする(結果)。これは「信仰の自由」による行為である。
しかし教会の側が「○○円以上献金をしなさい。そうしないとあなたは救われない」と脅して献金を強要する…それは目的と結果をひっくり返すことであり、人の「信じる気持ち」を利用した詐欺まがいの行為である。
今日の聖書の箇所は「割礼と救い」「律法と信仰」に関する事柄である。割礼とはユダヤ人の宗教的な儀式で、ユダヤ人であることを示す「肉体のしるし」である。初代教会の宣教において、ひとつの大きな問題となったのが「割礼問題」であった。当時、ユダヤ人以外の異邦人の中にもイエス・キリストを信じる人が現れ始めていた。その人たちに「救いを得たければ、まず割礼を受けてユダヤ人と同じ状態になれ」と主張する人々(保守派)が現れたのだ。
もともとユダヤ人が割礼を受けたのは、神の救いに対する感謝の思いを表すためであった。しかし時間の経過と共に、異邦人に対して「割礼を受けなければ救われない」という考えが出てきた。目的と結果をひっくり返した受けとめ方である。これに対して「いや割礼は必要ない。異邦人は異邦人のままで救われる!」と主張したのが、初代教会最大の伝道者・パウロである。
ガラテヤ書は、保守派の圧力により動揺している人々に向けた、パウロからの叱咤激励の手紙である。「キリストは私たちに自由を得させてくれた。だから二度と奴隷の軛(割礼や律法の支配)につながれてはならない」と語るのである。
「私たちはキリストの十字架によって、何の条件付けもなく救われている!」それがパウロの主張である。私たちはただその救いを信じて受け入れるだけでいい…それが「信仰義認」である。
「キリストに結ばれていれば割礼の有無は問題なく、愛の実践を伴う信仰こそが大切だ」とパウロは語る。上辺だけ、形だけを整える信仰ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ「まことの信仰」だということである。
ただし、ここでも順番を間違えないようにしたい。「愛の実践を伴う信仰を実現できたら救われる」そう受けとめたのでは元の木阿弥だ。愛の実践を伴う信仰は、救われるための「条件」ではない。神さまによって無条件に赦されている…そのことへの感謝の中から、愛の実践が「結果として」導かれてゆくのである。