2022年7月24日(日)
Ⅰテモテ3:14-16
キリスト教はきわめて伝道(布教)熱心な宗教である。世界の隅々まで宣教師が派遣され、時には激しい弾圧もくぐり抜けて、各地の人々をクリスチャンにすべく活動を展開してきた。そんな人々の足跡があったからこそ、私たちもいまこうして礼拝をささげることができる。
それらの宣教者たちの伝道への熱い思いを支えてきたところには、共通の思いがある。それは「キリスト教こそ、世界の人々を救いへと導く力がある!」という「強い信念」である。(別の表現では「妙な自信」「おせっかい」とも言えるが…)
キリスト教の前身・ユダヤ教は、そんなに伝道熱心ではないらしい。ユダヤ教への改宗者を拒みはしないが、自ら進んで熱心に宣教することはないのだそうだ。キリスト教がそんなユダヤ教の体質を受け継いでいたら、世界宗教にはなり得なかっただろう。
ユダヤ教徒にとってのメシヤ(救い主)は、ユダヤ人だけの救い主である。しかしキリスト教においては、「メシヤはユダヤ人だけの救い主ではない、世界の人々の救い主なのだ!」という考え方の変化が生じた。その変化に大きく関わったのがパウロである。
高等な教育を受け、国際共通語のギリシャ語を自由に操り、ユダヤ人以外の人ともコミュニケーションをとることができたパウロ。そんな彼がイエス・キリストと出会い、いと小さき隣人の救いのために自分の命を投げ出してまで関わり通したその教えと生き様に、自分のステータスを投げ捨ててもいいと思うほどに心打たれてしまった。そして「この方はユダヤ人だけでなく、世界の人々の救い主だ」と受けとめ、異邦人伝道に邁進していった。ここに世界宗教としてのキリスト教の歩みが始まる。
今日の箇所は、パウロが弟子のテモテに送った手紙の一節である。その中に、当時の礼拝で唱えられていたであろう短い信仰告白の文章が引用されている。その中に「異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ…」という言葉があることに注目したい。
この手紙が書かれた時点で、キリスト教はまだ世界宗教となり得てはおらず、まだまだ小さな集団に過ぎない。しかしその時点で既に世界宗教としての認識を先取りしているのである。
はたしてその後、キリスト教は「世界宗教」となっていった。それが本当に「よいこと」だったのかどうかは評価が分かれる。植民地化の先棒を担ぎ、先住民を絶滅させてしまった歴史もある。巨大化し権力と一体となった歩みの中で犯してしまったそのその過ちから、決して目をそらしてはならない。
しかし一方で、広められたキリスト教の教えに基づいて、いと小さき人々の尊厳を取り戻す活動も生み出された(奴隷解放や差別撤廃の運動、平和運動など)。その歴史を知る度に、「この世界にはイエス・キリストの福音が必要だ!」と思わされる。それはクリスチャンにとって必要だという意味にとどまらず、すべての人々にとって必要なのだと思う。
「世界の民は集められて/ひとつのからだ、ひとつの糧/ひとつの望み共に分かち/ひとりの神のみ民となる」(讃美歌390) 。この賛美歌で歌われる「ひとつ」とは、すべての人が一色に染められる世界のことではない。多様性における一致において、ひとりひとりが(特に小さき者が)尊ばれること、それがイエスの目指した道である。