2022年8月7日(日) 平和主日礼拝
創世記1:31, マタイ6:25-34
今年の平和主日は、ウクライナ戦争のことに心を痛めつつ迎えている。遠い世界の出来事を、短歌に詠い込むことによって身近にとらえようとする人々がいる。先日の教会報では教会員のYさんの作品をご紹介した。「ウクライナ 遥かなる国 ただひとり 名を知る人よ ナターシャ無事で」かつて、チェルノブイリ原発事故の被災者救援で関わった少女への思いを込めた作品だ。
新聞の歌壇に紹介された次の作品に、心を衝かれた。「ああ、こんなときにも空をきれいだと 思っていいの 自転車をこぐ」私も趣味でサイクリングをする。風の心地良さ・空や山の美しさを楽しんでいるが、この作品のようなとらえ方をしたことがなかった。その切なくもひたむきな思いに心を打たれた。歌壇の評者は「この問いに“Yes”と答えたい。しかしためらってしまう。誰が“Yes”と答えられるのだろう?空を造った神さまに、その資格があるのだろうか」と書いておられた。
思い出した映画のワンシーンがある。ベトナム戦争を描いた「グッドモーニング・ベトナム」の中で、悲惨な戦争の映像をバックに、ルイ・アームストロングの“What a wonderful world”の歌が流れた。そこには、「人間の生み出す戦争は悲惨だが、この世界は本質的には美しいのだ!」という監督のメッセージを感じた。
創世記の天地創造の物語で、繰り返される言葉がある。その日の創造のわざの最後に「神はこれを見てよしとされた」。6日目、最後の創造においては人間を造り、これに世界を治めることを命じられ、そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。この世界は「極めて良かった」そういうものとして創造されたということだ。
新約聖書には「空の鳥をみよ、野の花を見よ。」というイエスの教えが語られる。様々な悩み事・心配ごとに身をやつす人々に向けて、イエスは神の造られた世界のすばらしさを示し、その世界に守られ生かされてある「いま・この時」の尊さを示される。生きる限り人間には様々な悩みがある…それでも世界は美しい!イエスはそう語られるのである。
「こんなときに空をきれいだと思っていいの?」という問いに、イエスならどう答えられるだろう?「思っていいんだよ、そう思うことは大切だよ」そう答えられるのではないだろうか。けれどもそれは、戦争のような悲惨な現実とは関係なく世界は美しいのだ…よかった、よかった…そういうことではないだろう。「この美しい世界を少しでも広げられるように、保てるように、取り戻せるように、悲惨な現実があってもあきらめないで、その美しい世界のためにあなたのできることをしていきなさい…」イエスならそう言われるだろう。
今日も続く戦争の現実に対して、私たちのできることはほとんどない。しかしこの状況に「慣れ切って」しまわないで、歌を詠み、共に歌い、そして祈ることを忘れないようにしたい。「それでも世界は美しい」そのことを信じたい。