2022年9月11日(日) 地区講壇交換
詩編102:18-21,ルカ7:11-17
コロナ感染はまだ収まらず、現在も第7波のただ中にいる。コロナが始まって2年半、こんなに長く続くとは思わなかった。手ごわい感染症は世界中で多くの人の命を奪い、今も死の虚無の中で多くの人々が絶望の涙を流す状況が続いている。
今日の聖書は、ナインという街でのイエスとひとりの女性との出会いの物語である。最愛の息子に先立たれ、生きる希望・祈る言葉を失っていた彼女。街の多くの人は、悲しむ彼女に同情しその傍にたたずんでいた。しかしどれほど深い同情も、彼女の痛みを癒せなかった。死がもたらす虚無と絶望に彼女は打ちのめされていた。
そんな街にイエスは弟子たちと共に足を運ばれた。そして葬りの列に遭遇されるのである。イエスの歩みの行き先には、十字架の苦しみがある。永遠の命を与えるために十字架に向かうイエスの列と、虚無と絶望に覆われる葬りの列が交差する。
12節の「ちょうど」と訳された言葉は、“Behold(見よ)”との意味を持つ言葉である。絶望のどん底にある人々に、永遠の命を与えるイエスは「見よ」と語りかける。人々はその語りかけに気付かない。しかしイエスは見放さず、自ら行動を起こし母親に近付いて行かれた。
イエスが行動を起こしたのは何故か?13節に「憐れに思い」とある。これは人間的な同情を表す言葉ではない。「内臓が引きちぎられる痛み」を表す言葉が使われている。「かわいそう」という人間的な思いをはるかに超えた、「自分のはらわたがちぎれるような痛み」をイエスは感じられた。そして言われた。「もう泣かなくてもよい」。絶望の涙をぬぐい去るために、そう語りかけられたのである。
次いでイエスは棺に手を触れる。街を出て陰府に向かう葬送の列を止められたのである。そしてひとり息子に語りかけられる。「若者よ、起きなさい」。息子は、葬送の列においては、死の虚無と絶望に支配され、棺の中に横たわるだけだった。しかしイエスの言葉が、若者を死の虚無と切望の支配から解き放つ。若者は起き上がり、言葉を語り始めた。再び生きる者となったのである。
物語は淡々と語られているが、実際に居合わせた人々は驚き、卒倒しそうになったのではないだろうか。聖書はその驚きと恐れの中で神を賛美する人の声を書きとめる。「大預言者が現れた!神は民を心にかけて下さった!」。
人々はイエスを「救い主」とは言わず、「大預言者」と言ったに過ぎない。しかしイエスは、この後十字架への道を歩み、贖いの御業を成し遂げて下さった。罪と死に勝利し、永遠の命を与えて下さった。だからイエスはここで、救い主=メシヤとして「もう泣かないでもよい。若者よ、起きなさい」と言われたのだ。
そしてイエスは、2022年の今、コロナの絶望と虚無の中にある私たちにも声をかけて下さるのである。「もう泣かなくてもよい」と。
(文責=川上盾)