『 そこに喜びがあるか? 』川上牧師

2022年9月25日(日)
申命記15:7-11,Ⅱコリント9:6-12

私たちが何かの行動を起こそうとする時、その原動力やモチベーションとなるのは何だろうか?義務感や責任感、危機感といった感情を思い浮かべる。それらは確かに人を行動へと掻き立てるが、同時にプレッシャーや不安を与える感情でもある。

これに比べ、そのようなネガティブな要素を含まず、しかし大きな原動力となる感情がある。それは「喜び」である。義務感や責任感も時には大きな原動力となる。しかしそこに喜びが伴っていなければ、次第に人を裁くようになる。何事をするにしても、「そこに喜びがあるか?喜びを感じようとしているか?」そのことを大切にしたい。

古代イスラエルでは「7年に一度の負債免除」という慣習があった。神からり受けた土地の貸し借りおいて、定期的な格差の是正がなされたのである。今日の箇所は「ならば人に貸すのをやめておこう(いずれチャラにされてしまうから…)」といった「さもしい」考えを抱く人に向かって、「そのようなことを考えてはならない。困っている人がいたら、喜んで貸し与えなさい」と命じる箇所である。「喜んで貸し与える人を、神は祝福して下さる」と。

新約はエルサレム教会への献金による支援を呼びかけるパウロの言葉。初代教会の出発点であるエルサレム教会の宣教が行き詰まり、経済的な危機に陥っていた。何とか支援を!というパウロの呼びかけに対して、比較的裕福であったコリント教会の反応は、当初は芳しいものではなかったようで、再度の奮起をうながしているのである。

「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく…心から喜んで与えなさい」(7節)とパウロは記す。そして同じ献金運動に応えたマケドニアの教会の姿について記している(8:1-7)。マケドニア教会は、コリントに比べれば貧しく小さな教会であった。しかし「彼らは力に応じて、また力以上に、自ら進んで献げた」と記される。

献金額の多寡が言われているのではない。喜びをもって献げるその姿勢が賞賛されているのだ。逆に言えば、コリントの教会がどれほど多くを献げても、そこに喜びがなければ、パウロはそれを「よし」とはしなかったであろう。

日本YMCA同盟でウクライナ難民支援を続けられる横山由利亜さんは、そのようなご自身の活動の原点に、学生時代の釜ヶ崎での体験があると語られる。学生として中途半端な支援しかできず、「これでいいのか?」と迷っていた自分に、寄場労働者のひとりがかけてくれたひと言。「会いに来てくれてありがとう」。「何をしたか」ではなく、自分の存在を喜んでくれている…誰かを励ますことで自分も励まされている…「この時に感じた『幸福感のループ』にハマってしまって、現在に至っています」と。

今日の聖書は旧約も新約も「困っている人に惜しまず救いの手を差し伸べなさい」と命じられている。イエス・キリストに従う私たちにとって、それはある種の義務だと言える。多くの場合、義務感や責任感による行動は必要なものだ。しかし大切なのは、「そこに喜びがあるか・感じようとしているか?」ということだ。それこそが、私たちの行動が本当に豊かなものとなるかどうかの分岐点なのではないか。