2022年10月16日(日)
イザヤ25:4-9,黙示録7:2-4,9-12(10月16日)
レインボーコンサートが終わった。イベントは終わったが「多様性を尊ぶ教会」という私たちの目指す道は続く。「神さまは、それぞれのあるがままの姿を受け入れ下さる方である」「そのままの姿の私たちと、イエス・キリストは共に歩んで下さる」、そのことに支えと励ましを受けて、自分自身を生きること。そこに私たちの信じる「救い」がある。
イザヤはそんな神の救いを表して「この方こそ私たちの神。この神が私たちを救って下さる」と語る。この信仰が、度重なる苦難の歴史の中で、それを耐え忍ぶ力をユダヤ人に与えた。
ところがこの「神の救い」というものに、制限を付け始める…そういうことを人間はしてしまう。そこから過ちが始まるのだ。
中世カトリック教会では「免罪符を買った者だけが救われる」と説き、恐怖心を利用して巨額の献金を集めた。その過ちを命がけで指摘したのが宗教改革者・ルターである。最近話題になっているカルト宗教グループも、同じような理屈で壺や印鑑を高額で売りつけている。そんな風に神の救いを限定し、人々の恐怖をあおることによって、信者(献金)獲得を目論む…そんな過ちを犯すのである。
人数で制限を設けるグループもある。「最後の審判の時に14万4千人しか救われない。」そう言って伝道をするのである。この数字には聖書的な根拠があるにはある。それが黙示録7章である。
黙示録はローマ帝国の迫害の時代に、神の救いについて記した書物である。直接的な表現をすると迫害の危機があるので、さまざまな暗号が散りばめられている。この14万4千人という数字も、文字通りとらえるのではなくて、一種の暗号ととらえればいいのではないか。
はたして14万4千とはどういう数字か?その内訳は、イスラエル12部族から1万2千人ずつ。12という数字は一種の完全数で、聖書における神の祝福の広がりを表す数字だ。その12の1万2千倍…それは神さまの限りない救いの広がりを表す数字のように思える。
9節には「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」という言葉が記される。それは限られた人数「しか」救わない、という限定されたイメージではなく、神の救いにあずかる数限りない人を表す数字ではないだろうか。我らの信じる神さまは、世界80億人のうち、14万4千人しか救わないというようなちっぽけな方ではない。
では神の救いは無制限なのだろうか?14万4千にとは無限大の数字なのか?これについて言えば、残念ながら神の救いは無限大ではない…それが私たちの現実だ。ただしその現実とは、神さまが天から下される運命ではなく、人間が自らの選択によって招き寄せる現実なのだ。
神はすべての人を救おうと、招いておられる。しかしその招きにすべての人が応えるわけではない。「神の救い?そんなものはいらない。」「間に合ってます。」という現代人のところには残念ながら神の救いは届かない。それでいきなりその人たちが滅びるわけではない。しかし神の救いはそれを求める人の心にしか届かないのだ。14万4千人という「数の限定」は、そのような私たちの現実を表しているのかも知れない。
それでも私たちは語り続けよう。「われらの神は救いの神だ!」と。決して恐怖をあおり「その救いからもれるぞ!」と脅すような形ではなく、神の救いにあずかる喜びをもって、語り続けよう。