2022年11月13日(日)
出エジプト3:7-12,ルカ20:34-38
今年の召天者記念日には墓前礼拝を行い、納骨式も行なった。このような式に臨む私たちの心には次のような心情があるだろう。即ち「人は死ぬとその体は灰となり土に還り、その魂は天国に行き、そこで永遠の平安に包まれている」…これは心情というよりも、願望のようなものかも知れない。
しかし、肉体が土に還るというのはその通りだとしても、魂が天国に行くことについては誰もわからないというのが実情ではないか。なぜなら死後の世界を見て帰ってきた人はいないからである。死後の世界については、神さまに委ねるしかない…私はそう思っている。
今日の新約は、その死後の世界をめぐっての、イエスとサドカイ派の人々とのやりとりである。ファリサイ派は「復活はある。我々は最後の審判を受ける」と信じ教えていたが、サドカイ派は「復活はない」という考え方であった。その根拠は「律法(モーセ五書)に書いてないから」というものだった。
そのサドカイ派の人々がイエスの元に来て、質問をした。それは申命記25章の定め(レピナート婚=逆縁婚)についての質問で、6人の兄弟と次々に結婚し死別した妻は、復活の時に誰の妻になるのか?という内容だった。真面目な質問ではない。何せ彼らは復活を否定しているのだから。イエスをひっかけて問い詰めようという、意地の悪い質問である。
イエスはまともに答えない。こちらの世界では人はめとったり嫁いだりするが、あちらの世ではそういうことはない…彼らは天使のような存在であり、年齢・性別・個人の識別もなくなるのだ…そんなことを答えられる。この世の価値観を神の世に持ち込むな、ということだろうか。
イエスはこうも答えられた。「モーセの召命の時に神は『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と名乗られた。それが復活はあるということの証明だ!」。アブラハム・イサク・ヤコブを過去の人とせず、今ここにいるかのように語られるのが復活の証拠だ、と言われるのだが、これはちょっと苦しい理屈だと思う。
しかしそれに続けてイエスは重要なことを言われた。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。すべての人は神よって生きているからである」。この言葉をどうとらえればいいか。次のように考えたい。
「私たちが神を信じるのは、自分が死んだらどうなるのか、そのことへの明確な回答を得るためではない。死後地獄に落とされないためにどうしたらいいか…それは「死後に備える信仰」だ。しかし私たちにとっての神はそうじゃない。今を生きる営みに深く関わり、導きを与えてくれる存在なのだ…。」それがイエスの言葉の意味だと思う。
今の時をいかに心豊かに生きるか、あるいは今の時が苦しみに溢れてるならば、どうやってその中で救いを信じて生きることができるか、そんな私たちの「今」という時に深く関わり道を示してくれる存在、それが私たちにとっての神である。イエスの示す神は「生きている者の神」なのだ。