2022年12月11日(日)
ゼファニヤ3:14-18,ルカ1:5-17
今年もクリスマスの季節がやってきた。クリスマス飾りや電飾の準備をしながら、ワクワクする心を感じた。クリスマスは教会にとって大切な冬のお祭りである。その準備をするワクワク感は、いのちに彩りを与えてくれる。今年は3年ぶりにクリスマスの祝会を計画している。改めて「人間には祭が必要だ」と思う。
しかし聖書が示すのは、クリスマスとは「祭を祝えない人々」のところにもたらされた神の救いの訪れだということだ。ゼファニヤは大国アッシリアの脅威の中で祭のことを忘れていた人々に向かって、「私は祭を祝えず苦しむ者たちを集める」との神の言葉を伝えた。そしてその言葉は、その後長く救い主を待ち続けたユダヤの人々に向けての神の言葉でもある。
新約はバプテスマのヨハネの誕生物語。ザカリヤとエリサベトの夫婦は、子どもが与えられないまま年老いていた。いずれも祭司の家系で「主の掟を守り、非の打ち所のない人々」であったにもかかわらず、子どもが与えられない。「子孫の繁栄が主の祝福のしるし」というイスラエルの伝統において、それは大きな悲しみであった。
正しく生きようとしているにも関わらず、他の人々のような喜びから遠ざけられている…それはまじめな信仰者にとっては一つの危機である。「神さま、どうしてなのですか?」というつぶやきを抱かざるを得ないからである。
ある日ザカリヤは神殿で香を焚く役割に任ぜられる。これは一生に一度あるかどうかの名誉ある役割だ。ところがそのお役を果たす直前に天使が現れて、夫婦に子どもが生まれると告げる。ザカリヤは「まさかそんなんことが…」とそのお告げを疑った。そのために口が利けなくなってしまった。それでも無理をして臨んだ神殿の香焚きの仕事で、大失態を演じてしまう。
ザカリヤの内心はどうだったか?「あぁ、またか…。またもやこんな悲しみを味合わねばならないのか…」そんな思いが去来したのではないだろうか。それは不信仰なことではない。むしろ信仰深き人でさえ、神の約束を疑わざるを得ない状況があったということだ。このザカリヤの姿は、長い間神の救いを待ち望みながら、それが果たされないで来たユダヤ人の姿と重なる。
失意のうちにザカリヤは妻と共に5ヶ月の間姿を隠した。しかしその後エリサベトは、天使のお告げ通りに子どもを身籠ったのだ。さらに彼女の元に一人の少女が訪ねてくる。イエスの母となるマリアである。神の大いなる計画を知ったエリサベトは、マリアを祝福した。そして自身も子を産み、「その名はヨハネ」とザカリヤが文字板で示した瞬間、口が利けるようになった。祭を祝えなかった彼にも、ようやく神の救いが訪れたのだ。
今も世界には「祭を祝えない人々」がいる。その人たちのことを私たちは忘れてなならない。私たちの経験の中にも「祭を祝えない」と感じる出来事がある。そのような心のあるところにこそ、クリスマスの暖かな光がまっ先に届けられることを信じよう。