『 悩みをかかえた人が 』川上 盾 牧師

2021年12月18日(日)
ルカによる福音書1:26-38

私たちの人生には、悩むこと、迷うことがしばしばある。ところが現代の社会は、悩んだり迷ったり、そういうことに時間をかけることをマイナスととらえる傾向が強まっているように思う。

何事にも迷わずに即座に判断することが「軸がブレない」と称賛され、「スピード感を持って的確に判断すること」が美徳としてもてはやされる。そこでは迷ったり悩んだりすることは、「いけないこと」のように思えてくる。

かく言う私も、自分が悩んでいる姿を他人には見せたがらないタイプだ。内心は心臓バクバクするほど動揺していても、平然であるように振る舞うクセがついている。現代社会の価値観が染みついているのかも知れない。

聖書に記されたクリスマス物語を読んで思うのは、実に様々な人の「恐れ迷う姿、悩む姿」が記されているということだ。マリアへの受胎告知の場面では、天使の知らせに戸惑い、訝るマリアの姿。ヨセフへの夢の告知でも「ヨセフよ、恐れずにマリアを迎えよ」と記される。羊飼いへの知らせでは「主の栄光が照らしたとき、彼らは非常に恐れた」。

長い間待ち望んでいた救い主の誕生の知らせである。もっと喜んでもいいはずだ。しかし人間というものは、どんなにろくでもない状況であっても、それに慣れてしまうと、大きな変革の訪れに対し恐れや不安を感じるものなのかも知れない。ましてやその変革の一端を「お前も担え」と言われた時にはなおのことだ。

マリアへの告知の場面に戻ろう。天使のお告げを聞いて戸惑うマリア。むしろ拒んでいるとすら思える。それにはわけがある。結婚前の女性が、婚約者以外の男の子を宿すことは、当時は大きなご法度だった。「姦淫の罪」に定められたならば、相手と一緒に石打ちの刑(死刑)に処せられるかもしれない重大な罪とされたのだ。

ヨセフはマリアを「密かに離縁しようとした」とある。彼女に対して怒りを抱いたのか、それとも関係を絶つことによって逆に彼女を守ろうとしたのか。しかし再び夢で天使の「その子は聖霊によってみごもった」というお告げ言葉を聞いて、マリアを受け入れる。恐れ・不安はなくなったのか?むしろそれを抱いたまま受け入れたのではないだろうか。

マリアはどうだったか。天使のお告げに「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と返した彼女は、聖霊によるみごもりのことを聞くと「お言葉通りこの身になりますように(みこころのままに)」と答えた。この「どうしてそんなことが」から「みこころのままに」へ、すんなり気持ちが変わったのだろうか?むしろ迷いながら、悩みながら絞り出した「みこころのままに」だったのではないだろうか。

どんな状況が訪れてもまったく軸がブレず、自信満々に判断を下せる人…そんな完璧な人物ではなく、迷いながら、悩みながら、それでも神さまの言葉を(存在を)無視できない、大切に思わざるを得ない…そんな人々が、大切な御用を果たすために用いられていくのである。