『 いと小さき者に 』川上 盾 牧師

2022年12月25日(日)クリスマス礼拝
ミカ5:1-3,ルカ2:1-14

クリスマスとは、「いと小さき者」に届けられた神の救いの出来事、神の愛が、誰よりもまず「いと小さき者」に現された物語である。

受胎告知を受けた時、マリアはまだ結婚前の少女=いと小さき者であった。マリアは悩みながらその役割を引き受ける。やがてマリアは月が満ちて幼な子を産む。その場所は家畜小屋の飼い葉おけ。客間にすら泊まれずこれ以上ない貧しさ=いと小さき姿の中で救い主は生まれた。

東の国の博士たちが、「新しい王」の誕生の場所として示されたのは「ベツレヘム」。ユダヤの都であったエルサレムに比べれば小さな村だ。律法学者が根拠にしたのは預言者ミカの言葉。「ベツレヘムよ、お前はユダの士族の中でいと小さき者。」(ミカ5:1)その小さな村は、イスラエルの英雄・ダビデの出身地でもあった。

ミカの言葉を引用するマタイは「ベツレヘムよ、お前はユダの指導者の中でいちばん小さい者ではない」と、ミカとは正反対の言葉を記す。そこには「ベツレヘムからメシアが生まれた。だからそこはいちばん小さな場所ではない」という「あと知恵」による解釈が入っている。しかし私たちはその解釈を前提とせず、神がその救いをもたらすために、この世界のいと小さき者を選ばれるという、聖書の本質を忘れてはならない。

その救いの訪れをいちばん早く告げられたのも「いと小さき人々」だ。それは当時のユダヤ王・ヘロデではなく、民の祭司長や律法学者でもなく、野で羊を飼う羊飼いたちであった。CSのページェントでは羊飼いはかわいらしい姿で演じられるが、実際の羊飼いは決してそんな「かわいらしい」仕事ではなかった。定住をせず常に羊を飼いながらの遊牧生活。それは常に自然の猛威と直面する生活であり、家畜のお世話で糞尿にまみれる仕事、現代で言う「3K」の仕事だ。それ故に社会の最も低い層に置かれ、差別や偏見の眼差しを向けられていた。

そんな「いと小さき人々」に救い主誕生の知らせがまっ先に知らされたということ…ここに聖書のメッセージがある。羊飼いという小さき者「にも」よき知らせ告げられた…というのではない。彼らはいと小さき者「だからこそ」その喜びの出来事がまっ先に示されたのだ。

神の救いは、ベツレヘムという「いと小さき街」に現されたということ、神の救いは羊飼いのような「いと小さき者に」届けられたということ、それが聖書のメッセージなのだ。力を求め、知識を極め、地位や名誉を手に入れようとする人々、強いこと・大きいこと・きらびやかなことに目を奪われる人々に、気付きを与え自らのありようを振り返らせるために、神はいと小さき者を選ばれるのである。

「民全体に与えられる喜び」が「これらの最も小さい者」に示される…、その逆説がクリスマスである。①自分のちっぽけさを認める、②この世界にたくさんいる「いと小さき者」の存在を覚えて祈る、そんなこころを大切にしよう。そして神の愛を受けとめられる信仰を求めよう。