2023年1月8日(日)
ヨシュア3:14-17,ルカ3:15-22)
旧約・ヨシュア記では、エジプトを脱出したイスラエルの民が、モーセの後継者ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、「約束の地」に向かう場面が描かれる。川は春の水の多い時期で、どうやって渡ろうか思案していたところ、川の水が別れて壁のように立ち、その間を渡っていけたと記される。エジプト脱出時の「海の奇跡」と同じモチーフだ。「水の中を通って救われる」ということから、洗礼のアナロジー(類比)ともされてきたエピソードである。
新約はイエスの受洗の場面。これから公生涯に入ろうとするに際して、イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた。毎年クリスマスの数週間跡にはこの箇所が読まれることが多い。そこで今日は洗礼について語ろうと思う。
洗礼とは水で洗うことによって清められ、新たな歩みに向かうという意味で、クリスチャンになる入信の儀式である。元々はユダヤ教で異邦人が改宗する際に行われていた。洗礼は一生に一度のことである。なので希望する人には一定の準備をして、それなりの理解と覚悟をもって臨んでもらっている。
かつてキリスト教が「ヤソ」と呼ばれた時代には、親子の縁を切る覚悟で洗礼に臨んだ人もいると聞く。このように言うと、洗礼を受けるのはものすごい覚悟がいるように思う人もいるかも知れない。しかしみんながみんなそのような決意のもとに洗礼を受けたわけではない。何を隠そう、私自身の洗礼に至る道のりは、ぼんやりしたものだった。
同信会の献身キャンプに参加したのが契機となって、高3になる春休みに洗礼を受けたが、「熱い信仰心に打ち震えて…」という感じではまったくなかった。高3になる受験期を迎える中で、実家に帰って親とそれに関するややこしい話をしなければならない…その批判と追及の矛先を少しでも和らげられるかも…といった打算も正直あった。まじめに受洗した人には申し訳ないほどだ。
そんな洗礼式だったことに、しかし今は意味を見出している。受洗して「少しマシな人間になった」などと偉そうに思い上がることなく、どうしようもない自分の現実からクリスチャンとしての人生が始まったからだ。洗礼を受けた直後は、受ける前と何も変わらなかった。しかし、では全然変わらなかったか?というと、やはりその後の人生は変えられた。生涯一度の洗礼の体験が行く道を指さしてくれたように思う。
洗礼を受けるのに、どれほどの理解と覚悟が必要なのだろうか?試験に合格して資格を取る…というのとはまったく違う道のりだ。「イエス・キリストは素晴しい!」という思いと、イエスを信じる信仰へと招かれている…その思いがあれば、それで十分だと思う。あとはプールに飛び込む決意をするだけだ。
洗礼はゴールではない。スタートだ。イエスも洗礼を受けられ、そこから神の国の福音を伝える公生涯が始まったのだ。プールに飛び込み、自分で実際に泳ぐことで、そこから始まる人生が導かれるのだ。