2023年1月22日(日)
民数記9:15-23,ルカ4:20-30
先週1月17日は阪神大震災から28年目の日であった。建物や家具の圧迫で亡くなった人が多く、数cmで生死が分かれる現実があった。神戸で17年間牧師をしていたが、数cmで生き残った人のことを「神さまが守られたと言ってはならない」と自戒をしてきた。それを言ってしまうと、亡くなった方は「神さまが守られなかった」ということになってしまうからである。
「神さまは信じる者をいつも見つめ、守り導いて下さるかたである」という素朴な信仰がある。それは平時においてはとても力強く、頼りになるものだ。しかし災害や事故、病気や戦争といった現実は、その素朴な信仰を激しく揺さぶる。はたして「神の守りと導きはいつもある」ものなのだろうか?
旧約の箇所は民数記。エジプトの奴隷の苦しみから解放されたイスラエルの民が荒野の旅を続ける物語だ。神の約束の地・カナンに向けて荒野をさすらう人々を「昼は雲の柱、夜は火の柱が導いた」と記される。それは「神の守りと導き」を信じて歩む信仰共同体の姿である。
しかし人々はその素朴な信仰を常に抱いて歩んだわけではない。平時にはOKでも、一旦困ったことがあるとすぐにモーセに不平を言って困らせた。挙句の果てにはモーセがシナイ山に十戒を授かりに行った留守中に、金の子牛の像を作ってそれを拝み始め、おのれの欲望を神を崇める「偶像崇拝」の罪を犯した。「神は我々を守り導いて下さる」という素朴な信仰を脅かすもの、それは私たち人間の心の中に巣食う欲望や自己中心的な思いである。
新約はナザレにおけるイエスの宣教の初日のエピソード。安息日に会堂に入ると「解放の福音」を伝えるイザヤの言葉を読み、「この預言の言葉はいま成就した」と語られた。故郷の人々はイエスの姿をほめ、「あのヨセフの息子がなぁ…」と喜んだ。険悪な雰囲気はない。むしろ故郷ゆえのアットホームな状況だ。
ところがイエスが続けた言葉は、故郷の人々にとって大変辛辣なものだった。「カファルナウムでしたことをここでもしろ、と言われても、私はやらない。」「預言者は故郷では敬われない。」「エリヤの時もイスラエルの民は救われず、異邦人ばかり救われた」。イエスは何を言おうとしているのか。「故郷の人よ、私はあなたがたの思う通りには動かんよ。」ということだ。けれどもそのように言うことによってイエスはメッセージを発しておられる。「神の守りと導きとは、あなたがたの思い通りに都合よく守って下さることではない」と。
「神の守り・導き」とは何だろう?「神さまが自分のことを思い通りに守って下さる」ということであるなら、それは100%ではない。守られていると思える時も、そうは思えない時もある。しかし別の意味では私たちは「いつも守られている」。それは「空の鳥や野の花を養われる」という意味においてだ。大宇宙の中に浮かぶいのちを抱く奇跡の星・地球。いのちあるものが生きていくための術や糧が備えられた世界。その世界を造られた神さまは、私たちをいつも守り導いて下さる。