『 あなたを見捨てない 』川上 盾 牧師

2023年2月19日(日)
イザヤ41:8-16,ルカ9:10-17

私は幼少期から自覚的には「自己決定・自己責任」という考えて生きてきた。そのせいだろうか、自分の中にどこか人を突き放すような「冷たさ」があることを感じる。でも、だからこそ逆に、あふれるほどの配慮を示す人に感銘を受けるのである。

今日の箇所(新約)は、イエスによる「五千人の給食」の奇跡物語。どのようにして五つのパンと二匹の魚で5000人の人々を満腹させられたのか…最も気になるところだが、今日はその点には触れない。注目したいのは、イエスの群衆への関わり方、そして弟子たちへの関わり方についてである。

厳しい宣教の業の合間、必要な休息を得ようとして人里離れた所にこられたイエスと弟子たち。ところが群衆は目ざとく彼らを見つけ、その後を追ってきた。仕方ないのでイエスは彼らと向き合い、福音を語り、病気を癒された。

夕刻になったので弟子たちは群衆を解散させ、銘々で食べ物を調達させようとした。しかしイエスは「この人たちの世話をしなさい」と言われた。弟子たちは「勝手についてきたのだから自己責任・自己調達だ」と群衆を突き放そうとした。しかしイエスは群衆を見捨てようとはしなかった。

マルコ福音書には「(群衆が)飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた(原意「はらわたが痛む」)とある。ここにイエスと弟子たちとの決定的な違いがある。隣人への配慮を欠いた弟子たちの姿は、私たち自身の姿ではないだろうか。

弟子たちが「手元にあるのはたったこれだけ!」と調達したパンと魚を、イエスは手に取り祝福して割き、群衆に配られた。すると全ての人が満腹し、パン屑が12カゴも集められたのだ。

注目したいのは、イエスはご自身が祝福したパンと魚を「弟子たちに配らせた」ということである。隣人への配慮を忘れ、無理解な姿をさらけ出す弟子たちのことを、それでもイエスは見捨てずに、自分と一緒に宣教の働きを担う者として用いられるのである。

弟子たちは最初「こんなことして何になる?」と思って配り始めたかも知れない。しかしあちこちで分かち合いが始まり、みんなが満腹する様子を見て大きな驚きと感動を抱いたのではないだろうか。

このようにして弟子たちがイエスから学び、その後は十分な理解を携えてイエスに従っていった…となったならば素晴しいことだ。しかし実際にはそうならなかった。この後も弟子たちは無理解で未熟な姿を晒し続ける。しかしそれでも弟子たちを見限らず、イエスは用い続けられるのである。

私たちにはイエスのような生き方はできない。どこかで人を見限り、見捨ててしまう。しかし一方ではそのことへの「疚しさ」を覚える。その思いを忘れないようにしたい。なぜならその疚しさこそが、自己中心的な私たちの自己改革の足掛かりになるからだ。そしてすべての人には無理でも、たった一人でも「あなたを見捨てない」と言える関わりを作り出せるものでありたい。