2023年3月5日(日)
創世記6:11-22,ルカ11:14-20
私たちはみな、心の中に天使と悪魔を宿している。それが私たち人間の実情である。ところで、そもそも「悪」とは何だろう?私たちが「悪」と認識する事柄は、盗む・だます・争う・殺す…といったことである。しかし自然界の生き物にとっては、それらのことは生き延びるための当たり前のスキルであったりする。
人間だけが自然界の枠組みから離れ、それらのことを「悪」と見なし独自のルールや文明を作って来たのである。しかし人間の中にも「野生」が残っている。だから私たちの心の中に「悪」が宿っているのは自然なことである。けれどもだからと言って居直らず、そのどうしようもなく沸き起こる悪とどうやって折り合いをつけていくか、それが文明の中を生きる人間の大切な課題である。
ノアの箱舟の物語は、人の悪を神が洪水によって滅ぼされる物語である。このお話をベースにしたこんな小話がある。ノアが箱舟の扉を閉じようとした時、天使がやって来て「乗せてくれ」と頼んだ。ノアは「そうしてやりたいが、つがいでないと無理なんだ」と答えると、天使がパートナーとして連れてきたのは悪魔であった…。
単なる笑い話ではなく、事柄の本質を言い当てているようにも思う。私たちは善を求めて生きようとするが、すればするほど悪が浮かび上がる。パウロが「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」とローマ書に記している。天使の領域を定めることによって、悪魔の領域も際立ってくるのである。
ノアの箱舟の物語で、洪水後ノアたちが箱舟から降りてきた時、神が言われた言葉がある。「もはや人を罪によって滅ぼすことはしない。人が思うことははじめから悪いからだ。」これは、善=正を求めれば求めるほど悪に至ってしまう人間を、それでも神さまは見捨てずに向き合われるという宣言ではないか。
新約はイエスが「悪霊に取り憑かれた人」を癒された場面だ。イエスの癒しの現場に立ち会い、驚く人々の傍らで「あの男はベルゼブル(悪霊の親玉)の力で悪霊を追い出しているのだ」と揶揄する人たちがいた。私たちは「いつもやさしいイエスさま」というイメージを勝手に抱くが、イエスのなされた癒しの中には、荒々しい言葉と態度、鬼気迫る表情でなされた局面もあったことだろう。その情景を表面的に見て、下された一方的な評価である。
イエスは不思議な反論をされる。「国が内輪で争っては立ち行かない」。これは「私の癒しはサタンの内輪もめではない。聖霊によるものだ。」という反論か。しかしハタから見て、その激烈な癒しが悪霊の力によるものか、それとも聖霊なのかは判断がつかないだろう。
それよりも大切なことがある。誰も寄り付こうとしなかったその悪霊に憑かれた人と、イエスは向き合われ、そしてその人が癒されたということである。それが何の力によるものか…などという議論はどうでもいいのではないか。一人の人が癒される時、「そこに神の国が来ている」とイエスは言われるのである。
私たちは心の中に天使と悪魔を宿している。しかしそんな私たちをそれでも見放さずに向き合って下さる神さまやイエス・キリストに、心からの信頼を抱いて日々歩みたい。