『 救いの道、試練の道 』川上 盾 牧師

2023年3月12日(日)
イザヤ63:7-14,ルカ9:18-27

「人生が酸っぱいレモンを与えても、何とかおいしいレモネードを作ることはできる。」米TVドラマの中の台詞である。人生の苦難や悲しみも、やがては味わいに変えてゆける人間の力の尊さを感じる言葉である。

バビロン捕囚は、ユダヤ人の歴史の中で最も過酷で屈辱的な出来事と言われる。その捕囚から解放された人々に向けて預言したのが今日の旧約の箇所、第3イザヤの言葉である。捕囚の苦しみはイスラエルの罪に対して神が下された報いである。この苦しみを乗り越えて、救いの原点を見つめて、まことの信仰を育てて行こうと呼びかける。

イスラエルの救いの原点、それは出エジプトの出来事である。しかしエジプトから解放されてすぐに「約束の地」に入れた訳ではなかった。40年間荒野をさすらったその後、救いへと導かれる。神の救いは安易な道ではない。そこには「酸っぱい試練」も伴う道なのである。

新約聖書はペトロのイエスに対する信仰告白と、それに続くイエスの受難予告の場面だ。「あなたがたは私のことを何者だと思うか」というイエスの問いかけに、ペトロは得意満面に「あなたこそ神からのメシアです!」と答えた。ローマ帝国の支配から解放してくれる「栄光のメシア」の期待をイエスに託したのである。

しかしイエスは「そのことを誰にも言うな」と命じられ、続けて語られたのがご自身の受難予告、十字架への道のりであった。それは人々の期待する「栄光のメシア」ではなく「苦難のメシア」の姿である。

さらに続けて「私に従いたい者は自分の十字架を背負いなさい」とも言われた。弟子たちや群衆は甘くておいしい救いの道を求めていた。しかしイエスが示されたのは、酸っぱい道・・・けれども本当の救いに至る道であった。

人は誰でも、自分を苦しみ・痛みから解放してくれる救いを求める。ところがイエスは「私と一緒に十字架を背負って歩みなさい」と言われる。イエスと一緒に処刑されよ、ということか?そうではない。イエスと一緒に十字架を背負って歩む ― それは隣人に仕える道、他者のために敢えてしんどい道を歩む、ということである。

本当の救いというものは、自己目的だけを考えた自己中心的な生き方とは違うところにあるのだよ…イエスはそのことを示される。「十字架を背負いなさい」という言葉は命令口調ではあるが、強制的なものではなく、本当の豊かさへと私たちを招く言葉なのだ。

「私の言葉を恥じる者は、私も最後の審判の時その者を恥じる」と言われる。これは脅し文句ではない。イエスの招きを「そんなの損だからヤだ!」と言って拒むならば、「聖なる天使が輝くところ」即ち神の国から遠く離れてしまう、ということである。

聖書が示す「救い」、それは安易に、楽ちんに手に入るものではない。十字架を背負われたイエスの招きに応える「試練の道」である。でもその道を選ぶ者には、味わい豊かな人生が与えられるのだ。