『 未来を信じて旅立つ 』川上 盾 牧師

2023年3月19日(日) 卒業祝福礼拝
創世記15:1-6,ヘブライ11:1-2,8,13

一人の人間が暮らし慣れた生活から、新しい人生の岐路に向かうとき、期待と不安が入り混じった複雑な思いを抱く。それでも人は旅立ってゆく。多くの人にはそのような節目を迎えることが宿命づけられている。

聖書の民・イスラエルの歴史も、そのような思いを抱きながら、まだ見ぬ世界へ旅立って行った一人の人物から始まっている。アブラハム。イスラエルの父祖、「信仰の父」と呼ばれる人物である。

アブラハムはハランという街でそこそこ裕福な、恵まれた生活をしていた。そんな彼に、ある日突然神の言葉が響いてくる。「アブラハムよ、あなたは生まれ故郷・父の家を離れて、私の示す地に行きなさい。」いきなりの雲をつかむような召命である。しかしその神の声を聞き、アブラハムは75歳にして旅立った。

何の確約もない、まるでギャンブルのような決断である。しかし聖書は、そのような決断こそが信仰なのだと語る。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6)。ふと思う。アブラハムに迷いや不安や恐れはなかったのだろうか?と。

「悩まなかったわけがない」と私は思う。むしろ迷いだらけ不安だらけの中で、それでも未来を信じて旅立ったのではないだろうか。そしてその「悩みながら旅立つ姿」にこそ、同じ生身の人間として私たちの学ぶべき点がある。

私自身の駆け出しの頃の経験を思い出す。神学部を卒業し、最初の赴任地・東京の弓町本郷教会で3年間を過ごした。教会の仕事と共に、在日外国人の人権問題に関わる市民運動にも参加をし、多くを学んだ。3年後、正教師となったので、新たな任地の紹介を求めた。「全国どこにでも行きます!」とは言ったものの、気持ちは出身地の関西方面に向いていた。そんな私に示された任地は福島県会津若松市の教会であった。

躊躇した。気が乗らなかった。はたしてまったく見知らぬ土地でやっていけるのか。何より市民運動との関わりが薄れてしまうような気がして、断りの手紙を書いた。そしてポストの前まで行ったがそこで思い直した。「この手紙を出してはいけない!」。内なる声に促されて、招聘を受けることにした。

その会津の街で、私は人生を変える出会いを果たすことになる。隣の教会で副牧師を務めていた朋友・片岡謁也との出会いである。彼との出会いの中でケースにしまってあったギターを再び取り出し、音楽を通した宣教活動への道が開かれていった。今でこそ「歌う牧師」などと触れ込んでいるが、その原点は会津にあった。

会津行きを悩んでいた私の姿を、神は笑って見ておられただろう。「面白い出会いが待ってるのに、アホやなぁ…」と。

進みゆく未来に、何の不安もなく進んでゆける人は稀である。それでも私たちは「未来を信じて旅立つ」ことを大切に求めてゆきたい。なぜならそこには自分のまだ知らぬ人との出会い、思っても見ない人生が待ち受けているからである。