2023年4月9日(日) 棕櫚の主日
ルカ23:32-43
人間は追い詰められた時に本性を表す。平穏な余裕のある状況の中では仮面の中に隠していた本音が、極限状況の中で露わにされる。棕櫚の主日の今日、十字架の上で磔にされた極限状況の中で発せられた3人の声に注目したい。
イエスが処刑された時、議員や兵士は「お前は他人を救ったじゃないか。メシアなら自分を救ってみろ」と嘲笑した。するとイエスと一緒に十字架につけられた犯罪人のひとりも同じように言った。「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ」。これが一人目の声である。
そこには、自分の犯した罪への反省はなく、極限状況の中でも自分に執着する自己中心的な心理を見ることができる。追い詰められると居直ったように自己中心性をさらけ出す…。十字架の上の、一人目の声である。
するとそれを聞いていたもう一人の犯罪人が言った。「我々は自分の犯した罪の報いを受けている。しかしこの人は何も悪いことをしていない」。これが二人目の声。この人は一人目の仲間だろうか?しかしそのマインドは正反対である。この人は居直らず、自己に執着してもいない。むしろ潔く自分の罪を認め、その責任を引き受ける。いい意味での開き直りの姿である。
しかし彼は知っていた。「この人(=イエス)が裁かれたのは冤罪だ。そんな人に向かって、何てことを言うんだ!」そう言って、一人目をたしなめるのである。「お前は神をも恐れないのか」と語られる。極限状況の中で信仰が芽生えたのかも知れない。そしてイエスに向かって言う、「御国に行かれた時には私のことを思い出して下さい」。
するとイエスは「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた。最後に神を恐れる信仰に立ち帰り、自らの罪を認めて懺悔する人を、神はきっと迎えて下さる…そんなことを示す言葉である。人の目には「どうしようもない極悪人」と映っても、最後の救いの道は開かれているのである。
十字架上の3人の声、3つめは言うまでもなくイエスの声である。自分を十字架につける人々を見ながら、イエスは「彼らをお赦し下さい。何をしているのか知らないのです」と神に祈った。極限状況の中でも敵の赦しを願い執り成しの祈りをささげる…そんな声である。
この箇所は〔 〕の中に入っている。後代の加筆とされる部分だが、決して「ねつ造」ではない。「イエスならきっとこう言われる違いない」という信仰告白である。ルカ6:27-29に「敵を愛し、憎む者に親切にし、侮辱する者のために祈りなさい」というイエスの教えがある。それを十字架上の極限状況の中で実践されたということを表す言葉である。
私たちは敵を愛することができない。「やられたら、やり返せ!」そんな本能を抱いて生きている。そんな私たちに、イエスは黙って十字架の道を進み、本能のおもむくままとは違う生き方の尊さを示されたのだ。
十字架の上の三つの声、それぞれの立ち位置がある。私たちはどこに立っているだろうか。どこに立とうとしているだろうか。