2023年4月9日(日) イースター礼拝
ヨハネ20:11-18
マリアは泣いていた。金曜日の夕方、慕っていたイエスが十字架刑によって処刑されてしまった…その悲しみで泣いていたのだろうか?しかしヨハネが涙を流すマリアの姿を描くのは、日曜の朝、訪れた墓が空っぽだった状況においてのことだ。
日曜日(棕櫚の主日)から金曜日(受苦日)までの出来事は、マリアにとって怒涛の日々であった。ロバの子に乗ってエルサレムに向かうイエスを、「ホサナ!(=救いたまえ!)」と言って迎えた群衆が、金曜日には「十字架につけろ!」と叫ぶようになり、イエスは十字架につけられてしまった。
そのあまりにも急激な展開に、マリアは心がついていかなかったのではないか。私たちにも事故や急な病気で亡くなられた人がいると、実感が沸かないことがある。マリアは状況を「認識」してはいただろう。しかし心が追いついていなかった…。ひょっとしたら金曜日の夕方から日曜の朝にかけて、泣けなかったのかも知れない。
人間は悲しむべき時に悲しむことをし損ねると、後で思いもよらないトラウマを抱えてしまうことがある。先輩牧師から聞いた話。親族の方が突然亡くなった。その夫の葬儀において、妻は涙ひとつ見せられなかった。がまんして気丈に振る舞う姿を見て、先輩牧師の妻が「あなたちょっとおかしいよ。がまんしちゃダメだよ。泣かなきゃだめだよ。泣きなさい、泣けーっ!」と言うと、堰を切ったように「ワーッ!」と涙を流された。後でその方から「あの時泣かせてもらってよかった。泣いてなかったらおかしくなっていたかも知れない」と言われたそうだ。
マリアは泣くことができなかったのではないか。そして「お墓に行けば(遺体ではあるけど)またラボニ(先生)に会える。」そう思って出かけ、そこで心を取り戻そうとしたのではないだろうか。ところが墓に行ってみると中はからっぽだった。すがりつく対象を突然失い、大きな喪失感に襲われて、それで涙が溢れてきた…ということなのではないだろうか。
するとそこにイエスご自身が現れ、「マリア」と呼びかけられた…そう記されている。最初マリアはそれがイエスだとは気付かなかった。しかし名前を呼びかけるその声を聞いて、「ラボニ」と気付いた。マリアが涙を流した、悲しみを受けとめてちゃんとしっかり泣くことができた…そのマリアに、よみがえりの主がその名を呼びながら近づいて来られるのである。
誰も悲しみの涙など流したくはない。しかしそれでも人生に悲しみの出来事は訪れる。その悲しみに出会って流す涙には大きな意味がある。しっかり悲しむこと・泣くことの大切さを思わされるエピソードである。
3年に及ぶコロナウイルス状況は、私たちの心の中にどんよりとした重い鉛を沈めてきた。私たちはそれを「仕方なかったんだよ」とあきらめて流してきた。しかし大切なのはガマンしないでしっかり悲しむこと・泣くことなのではないか。そうして心を動かすことによって、悲しみは「思い出してもつらくない過去」となってゆく。しっかり泣いたその後に、復活のイエスと共なる新しい出会いと歩みが与えられるのである。