『 さぁ、いっしょに食べよう 』

2023年4月30日(日)
出エジプト16:13-16,ルカ24:36-43

コロナの3年間、あらゆる教会行事の中止・延期を余儀なくされてきた。特に共に食事をする交わりが持てなかったことは、とても残念なことだった。新たな状況が見えてきた中で、イエスが大切にされた「食卓を囲む交わり」を、心新たに再開してゆきたい。

今日の聖書は旧約も新約も「共食」に関する内容である。旧約はマナの出来事。エジプトの奴隷の状態から解放されたイスラエルの民が経験した不思議な出来事だ。解放され自由になったとはいえ、生活の拠点もなく、旅を続ける中でまず困ったのが水と食べ物だった。水に関しては「マラの苦い水」が不思議な杖によって飲めるようになり、食べ物に関してはマナという不思議な食べ物が与えられた。生きていくのに必要な生活の糧は、神さまから与えられていったのだ。

マナには不思議なルールがあった。「必要な分だけ集める」ということである。余分に集めたり、次の日の分を集めて楽をしようとすると、それは腐ったと記される。マナとはまさに「分かち合う天の糧」である。人々はマナを食べる時、「黙食」しただろうか?「個食」だっただろうか?いや、神に感謝して「共食」したに違いない。親しく語り合いながら食べたに違いない。

新約は、ルカの伝える「イエスと弟子たちの出会い・パート2」である。すでにエマオ途上でのことは取り上げた(4/16礼拝)。エマオでイエスに会った弟子たちが仲間のところに行ってそれを報告すると、その場によみがえりのイエスが現れたという。

弟子たちは「恐れおののいた」と記される。幽霊を見たと思ったからか?いやむしろ、イエスが十字架刑のために捕らえられた時、身捨てて逃げ去った疚しさがあったのではないか。「どのツラさげてイエスさまに会える?」と縮み上がる彼らに、イエスがかけた言葉、それは「シャローム」という日常のあいさつだった。それは弟子たちのことを承認する振る舞いである。つまりイエスは弟子たちの罪を赦されたのだ。

まだ疑いの目で見る弟子たちに、イエスが語られた言葉、それは「何か食べるものない?」というものだった。そこには食卓の交わりを大切にされたイエスの生き様が表されている。それは「さぁ、一緒に食べよう。そして共に生きよう」という呼びかけである。

「何か食べるものない?」と聞かれて、弟子たちが差し出したのは、ひと切れの焼き魚であった。ガリラヤのありふれた日常の食事である。決して御馳走ではない。しかしその普段通りのメニューで、弟子たちはイエスと共に食事をし、イエスと共に生きる新たな日常が始まった。復活のイエスとの出会い、それは決して特別なものではない。それは日常の中のささやかな出来事の中にあるのだ。

コロナ状況による暗く重たい日々にも、ようやく「コロナ後」の世界が訪れようとしている。それでもまだ億劫さをかかえる私たちに、イエスは呼びかけられる。「何か食べるものがあるか?さぁ、一緒に食べよう」。それはあらゆる垣根を乗り越えて、共に生きようという招きの言葉なのである。イエスの呼びかけに応え、私たちも共に食卓を囲み、共に生きるものとなろう。