『 たとえ杯は苦くても 』

2023年7月30日(日)
列王記上19:9-16,Ⅰペトロ3:13-22

先ほどまで赤城山で楽しいCSキャンプを過ごしていた。下山して迎える礼拝の聖書箇所は、大変重たいテーマである。切り替えが難しい。今日の箇所は旧約も新約も、まことの神を信じる者に加えられる弾圧や迫害について述べている箇所である。重たくならないはずがない。

なぜまことの神を信じる者は、しばしば弾圧を受けるのだろう?それはそのような人は人間の権力者に忖度しない、対決する生き様を生み出すからである。打算と日和見で生きる人には決してそのようなことはない。「それはおかしいよな…」と思いつつ、見て見ぬふりをする。しかし神の眼差しを感じる人は沈黙せず、「それはおかしい!」と発言する。世の権力者はそのように振る舞う人を最も嫌うのである。

イエス・キリストはまさにそのような人だった。だから十字架刑という悲しい形での最期を迎えさせられた。歴代の預言者の中にも同じような境遇に追いやられた人もいる。

旧約はその代表選手、エリヤの物語。アハブ・イゼベルという北王国史上最悪の王と王妃の時代に、エリヤは敢然と現れ、二人の悪政(バアル崇拝)を批判し、そしてそれ故に逃亡の度を余儀なくされる。その逃亡先でエリヤが神の声を聞き、絶望のどん底から再び立ち上がる場面である。

「私はたった一人で闘ってきましたが、もう限界です。どうか私の命を取って下さい」と泣き言をいうエリヤに、神は答えられる。「私はイスラエルに7000人を残す。バアルにひざまずかなかった者たちである。」欲望と虚栄・嘘で塗り固められた世界で真実を求めて生きる者は、しばしば孤独を味わう。しかしその苦い杯を飲むのは一人ではない、仲間がいるのだ…そんなことをこのエピソードは示している。

「義のために苦しみを受ける者は幸いです」。今日の新約、ペトロの手紙の一節である。初代教会の人々に加えられた弾圧・迫害の時代の中で、苦難に耐えて信仰を保とうとする人々を励ます言葉である。イエスの「義のために迫害される人は幸いだ。天の国はその人のものだ」という言葉とも重なるものである。

「義のために迫害される人」。大変遺憾なことながら、そのような人を生み出してしまう人間の現実がある。誰だって苦しみには遭いたくない。誰もがそれを避けようとする本能を持つ。しかしみんながダンマリを決め込んでしまったら、力ある者・富む者・権力者がますます得をし、弱い者・貧しい者はバカを見る…そんな世界が続く。

そんな中で「もう黙ってはおれん!」と声を上げ、悪しき現実の変革を訴え、そしてそのために迫害された人…。そんな人たちの不断の努力によって、人間の社会が少しずつマシなものに変えられてきた。そんな「義のために苦しむ人は幸いだ」と聖書は(イエスは)語る。

イエスは見て見ぬふりをなさらなかった。義を貫いて語り、行動し、そしてそのために殺された。苦い杯を引き受けられたのである。イエスの命は、肉においては死に渡されたが、霊においては生きるものとなった。それが復活の命・神の勝利である。その復活の力に支えられ、神の勝利を信じて、たとえ杯は苦くとも、その道を避けずに進みなさいと励ますのである。

「たとえ主から差し出される杯は苦くても、恐れず感謝をこめて愛する手から受けよう」(讃469-3節)。ナチスに抵抗し処刑された神学者、ボンヘッファーの言葉である。ボンヘッファーはまことの神を信じ、闘った。ナチスは彼の肉の命は奪ったが、霊の命までは奪えなかった。イエスもまた同じである。