2023年8月20日(日)
ヤコブの手紙1:19-27
「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」(19節)とヤコブは教える。とても大切なこと…と思いつつ、我が身を振り返って耳を塞ぎたくなる言葉でもある。神は私たちに、聞くための耳を二つ、語るための口は一つ与えられた。しゃべるよりも聞きなさい、ということだ。私たちは聞くことを大切にしているだろうか?「怒ること」に全神経を傾けることはないだろうか?
「人の怒りは神の義を実現しない」(20節)。時には必要な怒りもある。「怒ってはいけない」ということではないだろう。ただ「遅くしなさい」ということだ。感情のままの怒りは自分と人を傷つける。「ここぞ!」という時に正しく怒れる人でありたい。
「悪・汚れを捨て去り、み言葉を受け入れなさい」(21節)。神のことばが私たちの心を変えてくれる…そこに成長がある。イエスの「種まきのたとえ」を想い起こす。み言葉を聞いても、無関心だったり(道端)、困難に躓いたり(石地)、誘惑に負けたり(いばら)するのではなく、聞いて悟る人・実を結ぶ人こそ「良い地にまかれた種」だ。「汚れ」と訳された原語「ギルポス」の意味は「耳あか」。真実を遠ざける耳あかを取り除きなさい、ということだ。
そしてヤコブは核心に迫る。「み言葉を行なう人になりなさい。聞くだけで終わる人になってはいけない」(22節)。聞くだけで行わない人のことが「鏡を眺める人」にたとえられている。当時の鏡は今ほど鮮明ではなく、映る像もおぼろげであった。自分がどんな姿か忘れてしまう…聞いても忘れる人とはそのような人のことである。
「み言葉を実行しないことは自分を欺くことだ」(22節)。みんな年を取ると、できたことができないようになる。実行できないことの言い訳ばかりを考える私たち。神の真理に上手な言い訳は必要ない。誠実に従う道を求めたい。
「完全な律法を一心に見つめよ」(25節)。神はその昔、イスラエルを選び、その契約として彼らに「愛神愛隣」の律法を与えられた。しかしイスラエルは失敗を繰り返した。そんな彼らに与えられた「新しい契約」、それは外から人を縛るものではなく、内から人を導くものである。イエスの生きる姿こそが、完全な律法なのだ。
ところでルターはヤコブ書のことを、「わらの書簡」と呼んだ。人間の行ないがあまりにも重視され、神の恵みが後退していると読めることがその理由だ。けれども「信仰か、行ないか」と問われるとき、どちらかひとつではなく、信仰に基づく行ないが重要ではないかと思う。
三浦綾子の「塩狩峠」の主人公・永野信夫…。小説では立派な偉人ではなく、誠実な凡人として描かれている。ひとりの悩み苦しむ人が、最後は自分の身体を犠牲にして人を助け、神の言葉を実践するのである。
私たちには彼のような生き方はできないかも知れない。でも、イエス・キリストというよきお手本に従って、自分にできることをしよう。まずは誰かのために祈ることから始めよう。そうして「みこころを行なう人」となろう。 (文責=川上盾)